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巨刺と互刺、その他
鷗外の妻、森しげ傳記
 
 
 
2 0 2 0 年

 

< チャップリン >

子供の時分、「キングコング」を半泣きで見たおぼえがある。エンパイア・ステート・ビルの天辺で、飛行機に銃撃されるコングがあまりに可哀そうだった。「ノートルタムのせむし男」も哀れだった。いまは「せむし男」と口にすることすらできない。

5歳になる我家の男児にチャップリンの「ザ・キッド」を見せたら、口を半ば開けて食い入るように見ていた。この子はお母さんに捨てられて、チャップリンが育てているのだ。お前とおなじ5歳だと教えたら、自分の母親がいなくなったらどうなるかも含めて、すべては稲妻のように通じたのだった。

いまジブリを見せても、ディズニーを見せても通じないのは、映画の画面に、作った人間が体験している何物も写っていないからではないか。何か重大なテーマがあって映画ができたのは分る。が、テーマが絵空事であったり、形而上のものなら幼児には通じない。

チャップリンの映画には、当時の誰もが舐めた貧乏がある。この貧しさは、いま贅沢の極みの中にいては、口を酸っぱくして説いても伝わらない。当時の俳優の身体に滲みついたものを見せてはじめて分る。舞踊家の土方巽は、これを「酸っぱい匂い」のする体と言ったことがある。

チャップリンは必ず貧乏していて、腹を空かせていて、住む家がない。あってもひどいあばら家である。ポケットの中には小銭しかなく、それも最後の百円玉だから逡巡しながら躊躇のあげくに使う。貧乏のほかに、泥棒がいて掏摸がいる。酔っぱらい年寄り金持ちがいると、必ず騙され殴られ嚢中に手を入れられる。自分が狡く立ち回る番がやってきても、必ずお巡りさんが来てできなくなる。

私の子供は、「失敗の連続」は「ピタゴラスイッチ」を見て知っていたが、人生も世界も失敗の連続だとは、チャップリンを見て初めて分かったようだった。昔の映画には、今の映画には写っていないものが写っているようなのである。

 
チャップリンの無声映画
 
 

< 土地の教え、父祖の言葉、道徳 >

先日テレビで元(はじめ)ちとせと、城南海(きづきみなみ)というふたりの歌手を見た。ふたりは奄美大島の出だそうで、こどもの時分から三線を弾き島のことばで島の唄を歌っていた。東京に出てきて、日本の標準語の歌も歌うようになったが、歌い方には奄美の節(ふし)を残している。

元ちとせは10年ほど前に、やはりテレビで見てピンと来なかったが、いま40歳ばかりになり、あまりの堂々たる人品骨格に女神を見た思いがして、惚れぼれとした。城(きづき)のほうも歌がうまいのに加えて、何としても奄美の島々に世の耳目を集めたいという潔い決意を感じた。これも惚れ惚れとさせるところがあった。

話は変るようだが、ある人と話をしていて、治療の最終的な規範をどこに求めるか、という話題になって、私は鍼灸の伝統的な典範でも日本の法律でもなく、治療者としての現代的な倫理でもない。恐らくは、日本人として育ってきた我々の文化や道徳に求めるべきだろう、というようなことを言った。

ラフカディオ・ハーンに、日本の武士の夫婦が、長いあいだの別離のはてに相見えたとしても、決して西洋の夫婦のように抱きあい、頬を押しつけ合ったりはしない。おそらくは互いに見詰め合って、元気でいたか、というような言葉を二言三言語りかけるだけのことだろう。しかし、それが夫婦のあいだに愛情がないということではない。それが日本の武士の夫婦間のふかい愛情の表し方なのであり、武士という階級にある道徳なのだ、ということを書いた文章がある。

このことは現在でも我々にある。私たちは武士でも商人でもなくなったが、親や他人のまえでは夫婦間の諍いや揉め事を表に出さない。それはかならず隠すものだと、どんな日本人でも知っている。それは他人のまえで体裁を繕うという以上に、道徳でありモラルなのである。

私たちは、そんな道徳を教わるともなく知っていて、生活を縛っている。奄美大島に私は行ったことはないが、元ちとせの歌う様を見るだけで、この人の育ってきた土地も文化も道徳も知った思いになるのである。

イヌイットの子供が北極圏で生まれ、狩をして暮らしていたとき、子供たちはいちばん幸せだっただろう。父母の教えをうけて、自分たちの言葉で話をしていたとき、子供には何の不足もなかった。その後、米国の言葉を学び、州の学校に通うようになってから、子供たちは苦しみ意地悪になり、憎しみあうようになった。父祖の智恵、先祖の言葉から切り離され、暮らしの根が断たれてしまったからである・・・というC・W・ニコルの言葉を知った。これは次の日のテレビで見た。

 
 
 
 

< NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」再び >

NHKのテレビドラマ「64(ロクヨン)」については以前にも書いたことがあって、今回はインターネットで連続5回のDVDを安く見つけたので、家族に嗤われながらまた舐めるように5回ばかり見た。やはり名作だった。主演はピエール瀧。

横山秀夫原作の警察物のサスペンスが原作で、読んだ人も多いのではないか。私はドラマから入った。例によって何気なくテレビを点けたところ、異様な画面がくり広げられていて、3分ほどはテレビドラマを放送しているということも分らなかった。撮影に手間と暇がかかっているということで、それはこのたび見直して、いっそうはっきりした。

人物がふつうに画面に映っているということがほぼない。物の写ったガラスの向こうにいたり、ガラスや化粧板に映っていたり、逆光で表情が分りにくかったり、喋っている人物よりも遠景にいる人物が重要だったり。それはいわゆるスタイリッシュな映像では全くなく、そうした画面づくりで、言いようのない不安な雰囲気がつくられているのである。撮影は佐々木達之介、演出は井上剛とある。

物語はD県という架空の一地方におこった誘拐事件。送電鉄塔がつらなり、片側二車線の国道が走り、したがって公共交通の便のわるい土地であり、さほど大きくない川が流れ、児童公園があり、漬物工場がある。東京ではない、東京にほど近い、というより、さほど遠くない関東のどこかだと分るが、しかし何県だと断定できない。言ってみれば、われわれの日常のすぐ裏側にある異世界でおこっているような物語である。

主人公はその県警に勤めており、100坪ほどの土地に50坪ほどの一軒家をかまえている。一階に寝室があり居間があり、二階に子供部屋がある。妻は専業主婦で、毎度の食事をつくるが、皿のうえの献立はよくわからない。食器もありきたり、というより、周到に趣味の良くない皿や茶碗、どんぶりばかりがそろえられている。不穏ななにかが積みかさなってゆく。妻も木村佳乃が演じていて美人だが、着ているもの、台所にある布巾やエプロン、テーブルや椅子、こたつ布団、すべてが、やはり適度に趣味がよくない。

また、1回1時間、全5回を通して、誰かが笑うということもない。木村佳乃さえも、莞爾として微笑むということが一度としてない。最終回で夫をなぐさめるために、一度だけ泣き笑いをうかべた。また主人公のピエール瀧が笑ったのも、上司の自宅を訪ねたさいの夫人にむけた愛想笑いだけ。

まったく変ったドラマだ。この不安で不穏な雰囲気が5時間の話を引っ張る。原作にこの不穏さは皆無で、主人公は息つくひまもなく、警察内部のいがみ合い、記者クラブの軋轢、自分の娘(16歳)の失踪に翻弄される。そしてその渦中で卑劣きわまりない身代金誘拐事件がおこる。

今回ここでは、このドラマを表している表面的なことだけを言った。はなしの筋、演じる俳優は、いずれも素晴らしい。主人公をピエール瀧が、その部下を新井浩文が演じているが、いずれも実社会で刑事事件をおこして逮捕されている。二人も逮捕者のでたドラマなどあっただろうか。どんな見方をしても、超の付く変なドラマなのである。

 
NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」
 
 

< 出世は官僚の良心 ( 1 )・・・発端はマスク >

この冬は、ずっと佐藤優の外交官時代の回想を読んでいた。その中で何度かくり返し語られたことばに「出世は官僚の良心である」という印象的なものがあった。官僚は上司のめでたい覚えを得ようと一心に仕事にはげむ、副業で袖の下をとったり、仕事のできない議員や、所轄の下っ端に意地悪をすることが本業ではなく、上役の歓心をかうために仕事にはげむことは、公務員としての良心の現れだということだ。

佐藤氏も外交官時代には、いい上司に恵まれて、思いのたけ仕事をすることができたのだろう。そのために仕事をしすぎて逮捕もされたが、こんな言葉も書けたのである。私は著作のなかでこの言葉に出会うたびに、幸福な気持ちになった。

話は替わるようだが、政府から送られてくるマスクの評判が散々で、黄ばんでいる髪の毛が着いているゴミがついているなど、こてんぱんに言われている。当然、これにゴー・サインを出した総理大臣の評判も散々で、マスク、星野源を聞くYoutube動画、10万円給付にいたる経緯とともに酷評されている。

私個人の意見としては、なぜマスクごときでこんなに文句を言いたいのか分らない。人から貰ったものだもの、有難うと貰っておいて、気に食わなければ黙って捨てるか、ひき出しにしまっておく。普通そうする。もし汚れていても洗って使えるように、布でできている。なのに相手が総理大臣だと、ここまで文句を言わねばならなくなるのである。不思議でしかたがないことだが、これについては後半で書く。

マスク送付の経緯については、首相最側近の秘書某の発案だったことが週刊文春5月7日・14日号に報じてあって興味深かった。この秘書某の発案を実現するために、経産省、厚労省がマスク増産にあたり、総務省が配布にあたることとなり、各省から官僚が派遣されてマスク・チームができた。

ここまでは自然な流れだが、あとは各官僚の手柄の取り合いになった。どの会社が、いつまでに、どれほどのマスクを作れるか、梱包費、運送費はどれほどになるのか、自分の見つけた会社が、ルートが最速で最善で、もっとも安値であることを誇らんがためにマスク・チームの中は蜂の巣をつついたようになっただろう。官僚の良心である。

発注を受ける方は、実はこんな一時しのぎの仕事はしたくない。後に続かないからである。消毒用エタノールが出回らないのも、エタノールがあってもそれを入れる容器を作ってくれる会社がないからだという。SARSの時、各社は消毒薬を入れるボトルやスプレーつき容器をいっせいに作ったが、買われたのは3年の間だけだった。だから、今回がいくら国家危急の際でも、だれも消毒容器をつくらない。

こんどのマスクは、まだ騙された会社がないから、国家の緊急時だからと口説いて、なんとか興和、伊藤忠、マツオカの三社に受注してもらったが、三社にしてみれば発注書があるだけで、契約書もない。会社の儲けなどもちろん皆無で、無理を聞いてもらったベトナムの工場にも平身低頭である。日本人社員がひとり工場の床に段ボールを敷いて寝て、無事に納品したのに感謝の言葉もないどころか、いまだに費用の振り込みもない…

こんな調子では、次回の国家危急の際に誰が何をしてくれるのか。ここまで私は、アベノマスクが一心に仕事にはげむ官僚の良心にもとづいて作られ、国民に配られた経緯について書いた。(つづく)

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< 出世は官僚の良心 ( 2 )・・・下役は良心から手柄を奪いあう >

(承前)
ふたたび話が替わるようだが、森友学園の籠池理事長夫妻が弁解のビデオを作ってインターネットにアップしている、その内容があまりに衝撃的だと聞いて、仕事がヒマな私も見た。https://www.youtube.com/watch?v=eMibubIdXqY

話の内容は以下のようなことだった。曰く、森友学園が新しく小学校を作るらしいと聞いて説明会にやってきた中に、明らかに政治的に左派と思われる人たちが、入学希望の父兄を装ってやって来ていた。彼らは、森友が右翼小学校を作ろうとしていると喧伝して、それを材料に自民党を、安倍首相を攻撃しようとしていたのだ。中でも甚だしかったのは辻元清美議員である。

安倍首相も悪いが、森友学園を材料に安倍首相を攻撃しようとしていた辻元もどうなのか。こんなことが政治のやり方なのか。もっと言わせてもらえば、この問題をただ大きく騒ぎ立ててお祭り騒ぎの材料にしていたマスコミもどうなのか…

左翼政党が自民党を攻撃したいがために、目の前にある事件を材料に騒ぎ立てることなら、私も憶えがある。石原慎太郎都知事の頃、当時、私の住んでいた青梅市の永山丘陵が某ディベロッパーに開発されて、2,000戸の住宅ができるという話が持ち上った。あまりに急で大がかりな話だったので、永山丘陵付近の住民はこぞってこれに反対した。

青梅市は永山丘陵の土地が売れて住民がふえるのだから、もちろん大賛成で、形だけの住民説明会が開かれたあと、開発はあっという間に許可された。許可されて市の助成金が下りたところで、あろうことかこのディベロッパーは倒産して、青梅市は助成金を盗られただけで、何もかも煙のように消えた。

青梅市にあった左翼政党支部は、自然保護の立場から反対する団体に片端から連帯をよびかけて、そうした団体のおこなった現地の動物調査や反対運動を、みな自分の党がやったことにしてビラに書き立てた…

経産省厚労省総務省の官僚が、首相のよろこぶ顔が見たくて懸命に働くのが、自己の良心からの行ないであるなら、左翼政党の党員が、党首や支部長の顔を立てるために働くのも良心からの行ないなのである。Youtubeの動画だって、あんなものどうして首相が自分でやってみようと思うだろう。秘書の浅知恵でしかない。

これが政治の世界の日常なら、10万円給付のいざこざ共々、下役の手柄の取り合いの、とばっちりだけ受けて、国民に非難され続けなければならない首相の心の内はどんなものだろうか。これが政治の世界で生きてゆくことだと諦めがつくのだろうか。政治家は、つぎも国民のために働いてくれるだろうか。

何度も言ったことだが、日本での新型コロナの死者は、欧米各国が数万人をこえ、最優秀国といわれるドイツでも7,200人を超えているが、521人に過ぎない(いずれも5/6現在)。政府がはじめて出会ったウィルスなのだから、正しい施策だけ打ちだせるとは限らない。間違った方策が混じっていても仕方がない。まして日本は人も物も金も少しは回したまま、ウィルスを封じ込めようとしている。その上で、この死者数なのだから、たいへんな偉業なのである。なのにマスクのことだけ言って、褒めてくれる人が誰もいないのでは、政治家は国民のために働いてくれなくなる。

PCR検査しないのも、医療を守るためである。だから収束には時間がかかるだろう。欧米では中韓では、こんなに早く収束した、なぜ日本では検査しなかったかと、後日になって声高に非難するマスコミの声がすでに聞こえるようだ。( 終 )

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< 新型ウィルス禍中(1)・・・戦争と疫病 >

漢書、後漢書の史書では、為政者の行ないが正しくなければ、人心も乱れ、戦争が起こり、疫病が流行し、作物が育たず、人が大勢死ぬことに必ずなる。永年、私は戦争と疫病の流行とは関係がないだろう、したがって昔の人の神秘的な考えだと思っていたが、現実に各時代のどんな戦争にも、特有の流行病がついて回った事実を知るにいたって考えをあらためた。

週刊文春最新号(4月2日号)には、鹿島茂が速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウィルスの第一次世界戦争』(藤原書店 2006年)をダイジェストしていて興味深い。このインフルエンザは、私にとっては内田百閒を貧窮におとしいれ、その後、名作『大貧帖』を書かしめたインフルエンザでしかなかったが、今回その全貌を知った。

この最初の兆候は1918年春、欧州の第一次大戦に出征する、米国新兵のあいだに広まり、日本にも先触れていどに来た。その後、5,6月に中立国のスペインに広がり、塹壕戦を展開中の独仏間に広まったので、スペイン風邪と呼ばれるようになった。独軍を指揮していたルーデンドルフは、マルヌの戦いの敗北の原因は、新規参戦の米軍ではなくスペイン風邪だと回想しているという。

当時また死亡者は少なく7月には消滅したかに見えたが、世界を一周した後、翌18年8月になってフランス西部と、アフリカのシエラ・レオネで狂暴化して再現した。その結果、米国から欧州にわたる新兵と、欧州から米国にくる罹患者が米国東海岸で交差し、ウィルスを感染させることになった。

米軍の第一次世界大戦での戦没者は約10万人だが、その8割がスペイン風邪による病死だったという。このウィルスH1N1型が、目下のコロナ・ウィルスと違うのは、若く健康な肉体を好んだところで、米兵から欧州の前線へ、そして全ヨーロッパに広がった。この1919年春のあいだに、世界中を暴れまわったスペイン風邪は夏には終息したかに見えたが、またもや秋に復活した。

19年秋になって、日本は九州から広がりはじめ12月に全国的に流行。東京でも1920年1月には日に300人の死者を出した。この本の著者は、日本に、意外に多く残されている統計資料や、地方新聞記事のあつかうスペイン風邪の侵攻と拡散の実際をもとにし、なおかつ自身の専門である歴史人口学による統計批判をくわえた上で、最終的な合計死者を45万3152人だとしているという。世界的にみた場合、死者は人口20億の時代に2000万~4500万人だったという。

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< 新型ウィルス禍中(2)・・・戦争・疫病と文明 >

私が思うのは1894年の日清戦争、1904年の日露戦争を経験して、世の中が変わりすぎたと感じた日本人も少なからずいたのではないか。天命という言葉があるが、その変化が天命に背いていなかったか、疑問とした者は少なくなかったはずだが、時代は太平洋戦争にむかって加速して行った。

太平洋戦争の後、日本人は皆々大正8年に戻りたいと願ったという。大正8年ならスペイン風邪の流行った1919年だから、その流行まえが戦前の日本のもっとも栄えた時期だったのである。大正8年には、今あるものはテレビとPC以外は何でもあったという。戦争が終わって国民皆で大正8年にもどりたいと願って、戦後からバブルのはじける1991年までを見れば、大正8年の夢は戦後さらに加速したのである。天命を違えていると感じたものはいたが、それは少数でしかなかったのである。

目下、新型ウィルス禍の真っただ中で、人が憂えているのは自分と家族の命の次には、どうも経済の失速についてのようだ。命があっただけでも有難いだろうに、道徳でもなく、教育でもなく、まずは経済の心配をしなければならないのはなぜか。テレビに映るものがまずは国土の荒廃=経済の荒廃だからなのか。

私はこの青天の霹靂のようなウィルス禍によって、あるいは世の中が変わるのではないかと期待した。日本人の頭の中身はどんどん希薄になり、気概も失われ、それとともに国力も失われてゆく。何よりもいま最も力を入れなければならないのは教育だろうに、目の前の生活のことにしか人の目は向かない。だが、歴史をふりかえれば、そうした期待は諦めるしかないのか。禍いの後には、歴史は悪い方へさらに加速してきたのだ。

見よ、これは聖書といって、神の御業が書かれた聖なる書物である、と宣教師は文字を持たない土地の民に示したという。「神の言葉ではない。紙のうえに踊っているのは、悪魔の姿だ」と土地の者は、はじめて見た文字をさして言ったという。悪魔はいつも文明の姿をかりて我々のまえに現れる。

この挿話が、誰のどんな本に書かれていたものか私は長年知りたいと思いながら、果たせないでいる。ルドルフ・シュタイナーの本に紹介してあったのだが、そのシュタイナーの本さえ、いずれのものか分らなくなってしまった。

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< 健康な人の顔には煤けたような垢が着いている >

テレビ朝日は開局60周年だそうで、標高5000メートルのチベットの奥地ドルポに、半年ちかく滞在するドキュメンタリーを放送した。はじめ、秋にドルポにいたるまでの辛苦の旅があって、こんな大変な・・・と思ったが、これはほんの巻頭編で、じつは機材を運ぶためだけの旅だった。

本番は冬から春にかけてのドルポ滞在で、なにしろ土地の人も経験したことのない降雪だそうで、ヤギの1/3、ヤクの1/4が死んだという。まあ、そんな冬のチベットの最奥の村を、よくぞ紹介して下さいました。

テレビ朝日といえば、友寄隆英(ナスD)という狂気のようなディレクターをご存知の方も多いと思うが、この番組も彼によるもので、しかし今回はNHKを意識したらしく、ずいぶん円くなっておられた。この人、水彩画の心得のある人らしく、土地の人の似顔絵やマニ車を絵具で描いて渡して、皆に喜ばれていた。

旅の途中、ここから先は中国ですというシーンがあって、そこは何の編綴もない峠なのだが、こんな山村をテレビで紹介したばかりに、中国の共産党が入ってきてということだけにはなって欲しくない。

番組を見て、私があっと思い出したのは先日、古医書の訓読会で読んだ下のような霊枢の一条。「月満ちるときは、海水は西に盛んなりて、人の血気は積み、肌肉は充ち、皮膚は緻(あつ)まり、毛髪は堅く、腠理(肌のきめ)の㕁(すきま)に煙垢著(つ)く。この時に當り、賊風に遇うと雖も、その入ること浅く、入りても深からず」(霊枢七十九・歳露)
人が健康なときには、顔に煙の煤のような垢が着いているもので、こんな顔をしている者は、流行り病にかかっても、かるく済むと書いてある。

しかし、この顔が煤けたように黒くなるというのは有名な腎虚の兆候で、腎虚というのは、腎の力が無くなっている状態。私も高校時代の恩師の健康がすぐれなかった時に見たことがある。

このドキュメンタリーで見た、奥チベットの子供は、みな真っ黒の顔をしていた。日に焼けて黒いだけでなく、やはり黒い垢が着いているのだ。要するに顔に脂が浮いていないと、乾燥した土地では、風に吹かれて肌が傷んでしまうのだ。そういえば、私がモンゴルに行ったときも、二日ほど経つと爪の甘皮が全部ささくれてしまったということもあった。このことを霊枢にも書いてあったわけです。

 
 
 
 

< 何度目かのセイリン来訪 >

セイリンというのは使い捨ての鍼をつくる、世界的に名のある会社で、静岡市に本社がある。毎年のように神田の支社から営業の社員が、ニコス堂のような名のない鍼灸院まで訪ねて来る。世界的に名のある会社だから、製品は高品質で価格もそれなり。

使い捨ての鍼の世界もご多分にもれず、セイリンよりも廉価で品下がったものをつくる会社がいくつもできて、どうせ使い捨てだもの、自然にそっちを使うようになる。ニコス堂もそうした事情は同断なので、やくやく訪ねて来られると多少の罪悪感がある。そういうわけで、ちょうど時分時だったこともあり、昼食に誘った。

とんかつの清太は満席、ハンバーグのICHIは定休日だったので、イタリア小僧へスパゲティを食べに入った。ここのトマトソースは濃く煮つめてあっておいしいというと、一口食べて「おいしいです」と言い、自社のことを「手前ども」と言う律儀な営業マン氏だった。

セイリンの鍼については、私もいろいろな要望があってそれは今回も伝えたのだが(⇒http://nikosdou.net/blog_nikosdou_seirin_1.html)、鍼灸の業界についても問題になった。
「ほかの先生方から聞かされる問題は、どんなものですか?」と私。
「やはり、患者さんが思ったように来ないということでしょうか」
「5千円をすんなりと出せる世の中ではありませんからね」
ここまで言えば、セイリンの販路は日本の外に求めるしかないと分かる。同時に、業界と専門学校が何をしなくてはならないかも、明白になる。

「先日、NHKで鍼を紹介する番組がありましたね」と営業氏。
「ここ数年、NHKはずいぶん鍼灸に好意的ですが、セイリンから何か働きかけているのですか?」
「特別な働きかけはないはずですが。それよりも、鍼を刺したときにタレントの光浦さんが痛いと言っていたのには参りました」
「セイリンは痛くない鍼が社是ですからね」
「テロップにまで出てしまって」
なるほど、やはり真っ先にそういう所に目が行くのですね。それよりもやはり国内の販路拡大を考えてほしいのが、末端の鍼灸院なのですが。

「内容としては、痛いところに鍼を刺したらなおったということで、あれでは余りにおそまつではありませんか」と私。
「はあ」と営業氏。これはピンと来ていない様子。
「出ている先生も、みな医師のようで、鍼灸が専門ではないようでした」
「私も仕事上、鍼の上手な先生を紹介してほしいと思っているのですが」
「本当に腕のいい、その場で結果を出せる先生は、名のない先生ばかりです。テレビにも雑誌にも出てきません。後ほど紙に書きましょう」

名前が売れているということと、腕があるということが、実は別のことだというのは最近になった気づいたことで、要するに業界のプロデュースができる人と、治療の技術を持っている人とは、世の中では役割が別。まれに両方できる人も、もちろんいる。このNHKの番組は、白衣をきちんと着ているというだけの先生を選んでしまった観があったのが残念。

この後、グーグル・マイ・ビジネスとインターネット・コンサルの話などをして終了。今後は、さらに鍼灸師がどんな思いで治療しているかを知ってもらえると、もっと双方のためにいいと思うのですが。さらには、そもそもの論として、古典鍼灸書の世界なども。

 
 
 
 
 

< 森立之小伝畢  >

おわった~、という感想です。去年9月から書きはじめて、いくら何でも12月中に終るだろうと思っていたけれど、いつか書いたように、終わりたくなくなり、まあ読んでくれている人の気持ちを慮るに、あまり引っ張るのも良くないだろうと分かっていたのですが、17回かかりました。

いつか書かねばという思いはあったのですが、踏ん切りがつかないことには始められないし、始めたからには途中で終われないし、森先生の手前、中途半端なもので済ませるわけにも行かないし。

一昨年ひどくイヤ~なことがあって、二度目に読みはじめた鷗外の「伊澤蘭軒」を、ノートを取りながら読むことにしたのが正解でした。夜中までPCを叩いていると、鷗外の文語文というものは有難いもので、イヤなことは何となく忘れられました。「澀江抽齋」もノートを作ろうと思ったのですが、これは見切り発車になりました。

高校時代に文学を志していた一時期があって、クラブの顧問の先生(宮沢賢治を研究しておられた)に、鷗外を読むなら「澀江抽齋」だぞ、と言われた一言がずっと心に引っかかっていて、鍼灸の仕事をはじめてからも、澁江抽齋=霊枢の注釈書を書いた人、という一抹の敬意がありました。

で、高校・大学時代と挫折した「澀江抽齋」に再々度とりかかり、やはり挫折して、何年か後に四度目のトライ。この時は、素直に読めました。素問と霊枢を自分で読んでいたからです。中国の医古典は、その世界でいちど溺れてみなければ、泳ぎ方の習得できない世界で、私も何とか泳ぎ方が分っていたのです。

その時になって、高校の恩師も「澀江抽齋」に何が書いてあるのかは、分っていなかったな、とピンと来ました。この作品自体、新聞の連載でしたが読者には不評で、評価が高まったのは永井荷風が一言ほめたからです。つづく「伊澤蘭軒」はもっと不評で、石川淳が評している通り、「むつかしい字が使ってあるせいでもなく、はなしがしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女童幼の知能に適さないから」です。私の知能にも適しませんでした。

そこで、私のスタンスは決まりました。鍼灸や内經のことを知らない人にも分かってもらえるような森立之伝を書こうということでした。思えば、鷗外の抽齋、蘭軒すら、批評家は敬遠しています。文学的な評価はできても、江戸時代の考証医家の頭のなかや、中国の医古経の世界など知らないからです。戦前の教育のなかで育って四書五経を読んでいれば、中国の大学(学問の本道)は分りますが、医経は漢学のなかでも全く外れに位置する学問です。科挙に合格した進士は、政治や哲学・歴史を志しても、医の道などに目もくれませんでした。医経は外野もいいところなのです。

しかし、日本の江戸時代の医家は、幕府の後ろ盾もあって、そうした医古経の研究に邁進できました。まず日本には、血にまみれる医師を低くみるというカースト意識がありませんでした。教育面では、医経を学ぶまえに、子供の頃から漢学をみっちり仕込まれていました。そして、日本には中国で失われた書籍が多く残っており、その書物を木版印刷して出版できる土壌が育っていました。そうした恵まれた背景を背負って、森立之は79歳まで長生きして、師匠と同輩の研究をすべて引き継ぎ、生まれ持った博覧強記の頭脳をフル回転させて、最大の成果をあげました。おまけに、その人となりたるや馬鹿丸出しです。こんなに魅力的な人がまったく忘れ去られていることが、私は悔しくてなりませんでした。

18世紀のイギリスで、なぜ産業革命が起こったのかについて、宮崎市定という東洋史家がひじょうに興味深いことを書いています。石炭と鉄が近接して産出すること、イギリスが島国で交通が便利だったことといった条件があるが、これらは太古以来そなわっていた地理的条件で、そこに新大陸とインド洋航路が発見されて商業が隆盛をきわめ、ヨーロッパが好景気にみまわれたという絶好の条件が加わって、はじめて産業革命が可能になった、と。(『古代大和朝廷』「東洋史の上の日本」ちくま学芸文庫)

この言い方でいえば、立之が何故あれだけの業績を残せたのか、その条件になったものを、先のように並べることはできるのです。私がもう一つ言いたいのは、その絶好の条件の地点に、なぜ立之という人がやってきたのかということです。単なる偶然でしょうか? こんな出来事が、真に偶然で起こることでしょうか。その理由は説明できるものではありません。こういうとき人は、神様が遣わしたのだ、あるいは歴史が必要としたのだと考えます。私も、それで良いのだと考えます。

森立之小伝⇒

 
森立之小伝
 
 
 
 
 
 
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