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巨刺と互刺、その他
鷗外の妻、森しげ傳記
 
 
 
2 0 1 8 年 < 1 >

 

<サッカーワールドカップ 日本、予選グループリーグ突破 !>

何十年かまえにギリシアを旅行したとき、小さな島の食堂のテレビでサッカーの試合を見ている老人たちに出くわした。対戦の相手はトルコで、ギリシアとトルコは今でこそ仲のよいふりをしているが、長いあいだ戦争をしていた。中世以来トルコは西アジアの大国で、ギリシアはアレクサンダー大王の時代をのぞいては小国にすぎなかった。武器をもっての戦争は、ギリシアの連戦連敗だった。

トルコを統べるオスマン朝、セルジューク朝の残忍さはヨーロッパを震えあがらせ、その怖さを知らない国はない。ギリシアの島々はつねにトルコに侵略されづけた。そのトルコが相手のサッカーの国際試合だったのである。食堂の老人たちは、暗い熱を帯びてテレビの画面を見づつけるだけ。だれ一人声をあげる者はいなかった。

日本にJリーグができたのはこの後のことで、日本が韓国、中国と試合をするときは球技というより闘技だった。韓・中だけでなく中東の国と試合をしても、ひどい暴力をもって迎えられた。その後、日本の選手がサッカー先進国のリーグに出稼ぎに行くようになってからは、あまり虐められなくなった。

話はかわるが2年ほど前に日本のラグビーが急に強くなったとき、メンバーのあまりの硬骨漢ぶりに日本中が驚いた。ばさばさの髪、鮫肌、節くれだった指にはかならず絆創膏が巻いてあり、いずれも胸板あつく、足も腕も電柱のように太かった。テレビに映っても、冗談をいったり剽気たりする者もいなかった(今はもういる)。日本中がサッカー選手というものの軽佻浮薄であることに気づいた瞬間だった。

いま、サッカー選手が皆々芸能人およびモデルの奥方を持つようになったことを知らない人はいない。あんな奥方を持ってしまったら、どんな苦労が待っているかは、皆さんご存知のことで、苦労しないで済むのは金で解決できるからである。サッカー選手は皆、美しい歯をならべ、眉もかたちを整え、髪はきれいに散髪して整髪料で撫でつけるか染めてある。そして日の丸を背負って戦っているというが、そうではあるまい。

家族で背負う苦労が金銭で解決できるものなら、苦労は苦労にならない。そこにどんな日の丸があろう。日本のサッカーはある日を境に、ビジネスに似たものになったのだ。栄華の極みのローマで、人はパンと見世物求めたというが、日本のサッカーもその連なりでしかない。人はワーあるいはキャーといって見てはくれるだろうが、黙りこくり、恨みをのんで見てくれることはないのだ。


 
 
 

<伊澤蘭軒・・・江戸の考証学者たちと森鷗外>

仔細があって森鷗外の「伊澤蘭軒」を再読している。伊澤蘭軒は江戸の文化・文政期の医家で考証学者、福山藩阿部家の臣である。
考証学とは、文献学、書誌学といいかえても差し支えないだろうと思う。江戸の後期にはこの文献学や書誌学がひどく隆盛した。この隆盛のしかたは、文字どおり狂ったように盛んになる。

文献学であるから書物への愛だが、この愛着をしめしたものに、なぜか医家が多い。ただ江戸の医者だけでなく、日本全国の好学の士が私塾をひらき、そこに学問を志す人々が集ったから、日本のルネッサンス期といえる。

鷗外の書いた伊澤蘭軒の門下には澀江抽齋がいる森立之がいる。蘭軒の子供は榛軒と柏軒で、これも医家であり考証家である。蘭軒の友に古物商の狩谷エキ(木+夜)斎がいる、福山の私塾で学生を集める管茶山がいる。おなじく医家の多紀元簡、その子、サイ(ヨロイグサという字)庭、元堅の兄弟がいて、元簡は幕府官設の医学校長でもある。さきの抽齋、立之はこの医学校に入る。ふたりの友にはまた小嶋寶素、山田業広ほかの偉才がいる。

いま上げた名で、一箇の研究者でない者はない。しかし現在、ここでこれらの名を聞いて知っている人はないのではないか。彼らはみな、自己の職業にかかわる漢籍の一言一句まで研究した人たちである。医家なら医書はもちろん、老荘・史書・詩、四書五経なら注釈文まで諳んじていた人である。なかでも森立之(枳園)は明治まで長命して、清国の大使、士大夫を驚かせた世界的な学者だった。いま中国でおこなわれている古典学の基礎は、立之が日本の書肆を介して清に逆輸入させた漢籍にあるという。

私は当時のことが知りたくて、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」を読み、手塚治虫の「陽だまりの樹」を読んだ。しかし、いずれも既得権益に汲々とする旧態依然勢力としか描かれていなかった。私は、これが悔しくてならない。

次いで私は彼らの風貌や人となりを思い描いてみる。蘭軒は足疾になやみ、座布団の上に乗って部屋を移動する医者だった。息子の柏軒は幕末に軍艦で函館まで行った熱血漢である。多紀一家は福々しく太った、羽織の似合う親子だった。太っているといえば、湯島の古物商・津軽屋三右衛門狩谷エキ(木+夜)斎も、便々たる腹の美丈夫だったという。森立之は子をもつ女と見れば乳を吸いたがる歌舞伎狂の博覧強記、澀江抽齋は典型的な石部金吉と、いずれも個性には事欠かない人々である。

こうした碩学たちが明治維新を期に、社会から掻き消されてしまったのである。考えてみれば恐ろしい話だ。明治は江戸時代の人によって作られた。そして、昭和が明治の人に作られたことを考えれば、明治の人間がどんなものであったか、その価値が分るというものである。まして平成が昭和の人によって作られたなど嗤い話でしかない。

終りに私は教養というものについて、あらためて考えざるをえない。ここに蘭軒の賦した詩がある。足疾がきわまって治療がままならなくなり、ついに貧の極みに達して家を売るに至ったときの詩である。煩をさけて一部だけ引く。

そこには、
「軒窓優ならずといえども、かえって月に酔い花を詠じて遊ぶによし、ついに貧の至りの来たり、銭にかえて去る、後にある主人あやまちを效(なら)うなかれ」
とあり、
「頭に担せ図書を挑(にな)い得て去る、これは是れ凡夫執著の心」
とある。

金がなくて家を売るなら、こんなに情けないことはないだろう。それなのに、後に来る人に同じあやまちを繰り返すな、と言っている。そして凡夫凡婦の執着心から、本を担いで去るのである。これは教養の救いがあってはじめて持つことのできる感慨である。文字を識り、文を書くことのできる人だけが持つ強さである。鷗外はこれを善謔といって称えている。

鷗外は大正11年、61才で死んでいるが、最後に江戸の考証学者たちの物語を三篇書いている。それらは歴史文学ということになっているが、はたしてそうか。「澀江抽齋」はその始めのもので、鷗外が創作した部分が多い。しかし後の二編「伊澤蘭軒」「北條霞亭」は当人たちの著作、詩、残したおびただしい手紙などを検して、ピンセットと接着剤でつくり上げたような考証の成果である。鷗外は、考証学者たちを愛するあまり、さいごには自身が考証学者になってしまったように見える。

 

 
 

<甚則欲上高而歌棄衣而走  高いところで歌いたがったり、裸になって走ったり>

某有名男性5人組歌手グループの一人が、深夜の公園で酔っ払って素裸になって大声をあげて騒いだものだから警察沙汰になって、新聞にも載った。当時東京都知事だった石原慎太郎は「その気持ちも分るじゃないか」と言った。

私が見たのはもう30年も前だろう、朝6時の目白通りを素裸になって走る女だった。年のころは50半ばだったろう、髪ふりみだして大声を上げて走る様はさながら鬼女で、目の光も尋常でなかった。なので「その気持ちも分るじゃないか」というものではなかった。あとから何台もパトカーと白バイがやってきた。

「病が甚だしくなれば、高いところに登って歌いたがり、衣を棄てて走る」というのは昔からの医書に書いてある常套句で、私の知っているかぎり、古いものではBC200年以前に書かれた中国の医書に見え、その2~300年後の著名な二つの医書にも見える。

話は変わるようだが、NHKの「西郷どん!」に本壽院というのが出てきて、13代将軍の生母で泉ピン子が演じている。当時の大奥で権勢をふるっていたというが、泉ピン子が演じると、すさまじい迫力。しかしながら、歴史の上にはもうひとり本壽院がいて、これは泉ピン子より150年ほど前の本壽院。で、実はこっちの方が泉ビン子より、はるかに凄まじかった。

この本壽院は尾張徳川4代目の殿様の吉通の生母で、吉通が早世したため35才の若さで落飾して本壽院と名のった。あまりの凄まじさのため、『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)を読んで以来忘れられない。

いわく「本寿院様貪淫絶倫。或いは寺へ行きて御宿し、又は昼夜あやつり狂言にて諸町人役者等入込み、其の内御気に入れば誰によらず召して婬戯す」
また曰く「本寿院様甚だ荒淫不法なり・・・本寿院を汚す輩、役者、町人、寺僧および御中間らまで甚だ多し。軽き者は御金を拝領すること多し」
はたまた曰く「頃日、本寿院様お好みにより、江戸にて相撲取り一人御抱へ・・・」

歌舞伎役者と相撲取りは、芸者・金持ち夫人とは切っても切れない仲間だと読んではいたけれど、元禄の昔からの話だったとはなあ。
最後には「御付、御用達などはじめて江戸へ下りし者は、時に触れて御湯殿へ召され、女中に命じて裸になし・・・」とまで書いてある。
・・・のところは、私といえども引き写すのが憚られるから遠慮しました。もちろん、本には委細が書いてあります。

あまりの行状のひどさに公儀もついに本壽院に蟄居の命を下した。
「江戸に於いて本寿院様四ツ谷御屋敷へ御入り。公儀より御内意の移りこれあり、かくの如く蟄し給ふ」宝永2年・1705年、本壽院41才のこと。
こうやって閉じ込めたのが最悪の結果を招いたわけで、この院が本題のように「高きに上りて」大声で叫んだというのは、この10年後。
「本寿院様御乱髪なんどにて、御屋敷の大もみの木なんどへのぼり玉ふ事ありといふ也」

これは先日、研究会で「うつに対する鍼灸治療」と題して話したことの一部。ちなみに、なぜこのような病状を呈するかについては、古人は「手足は陽気の本なので、病人の陽気が盛んになると、手足に力が満ちて、普段は不可能な高いところにでも登ることができるようになる」と説明している。

これがさらに昂じると、大声で歌ったり、裸になって走ったりして、気が触れたようになるのだというが、こんな風に仮名まじりで書くより、「甚則欲上高而歌棄衣而走」と、漢字で黒々と書いてあると、心底不気味。

 

(画像は、本文と少しだけ関係があります)

 
 

<才女家人>

自分の妻子のことは良くは言わないのがエチケットで、自分の妻が若々しい美人で、息子も才気渙発である、と言えば人は顔をそむける。愚妻、荊妻といい、豚児だというくらいがちょうど良いが、あまり棘が感じられることばかり書くと、書いている私が疑われるので、今回は(努力して)褒める。

先日、朝もやのかかった外の景色を見て、「春はあけぼの」と言ったきり後の続かない私を助けて、「ようよう白くなりゆく山際、白く明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」と、すらすらいうので、家人を見直した。

「それ、憶えているの?」
「私も、たまには」
私もたまには、とはこれまた奥床しい。思えば家人は、眉目秀麗で才長けた佳人である。歌を歌えばそのアルトに誰もが耳をかたむけ、名のある日本の古典の章句も、たいてい誦んじている。常にひかえめで、子供に対する態度も慈しみ深いことこの上ない。料理も上手で、けっして時間に遅れるということがない・・・と書けば、やはり読む人は鼻白むだろう。

わが家人は色白く才ある美人だ。努めて控えめにしており、大声で子供を叱りつけるということもない。料理も上手な方で、いつも時間に間に合うように努力している、と書けば、読む人はほほ笑むだろうか。

わが家人は色白く才ある美人だ。つねに出しゃばりすぎないように気をつけており、子供にも手だけは上げない。料理も私の口には合うし、いつも時間に間に合うように駆けまわっている、と書けば、私は同情を得られるだろうが、家人の仕返しを覚悟しなければならない。

しかく、家族を褒めるのはむずかしい。しかし時に「(父母の年は)忘るべからず、じゃなくて、知らざるべからず、だよ」と正してくれるのも、その人なのである。

 
 
 
 

<家は建つか? ・・・不動産屋と私>

 患者さんから「千三屋(せんみつや)」という言葉を最後にきいたのは、もう10年以上まえだからもう死語だろう。不動産屋、銀行、證券会社など手数料商売というものは世間から良くはいわれない。なぜというに、恐らくは人の財産をあつかって自分の儲け口にするところが嫌われる理由なのだと私は理解している。聖書のマタイは当時の税吏で、税吏というだけで蛇蝎のように嫌われた。団鬼六という作家のインタビューを読んだとき、なんと世知に長けた人かと感銘したが、エロはエロとしか見られない。古今と洋の東西とを問わず、職業には貴賤というものがあるのである。

 家を建てるというのは、今でも男子の本懐で、それというのも男子以上に女子の本懐だからである。家にこだわる男子もいるが、奥方にせかされて男子の本懐をとげる方が圧倒的に多い。私の場合も正にそうで、うまいものが食いたい、大勢で楽しみたいという種類の欲のない陰々滅々の私に、いい家に住みたいなどという希望のあろうはずがない。家人の熱情に圧倒されたすえに、わが家も建った。

 (かつて)家を建てたと聞くと、婦人なら色めきたつ。どこに建てた、いつ建てた、土地は何坪で、家屋の総面積はいくらだと、すでにその目の色が訊いている。どこに建てたか知れたなら、その土地の値は分るから、いくらのローンになったかまですぐ分かる。そのローンはすぐに通ったか、万難を排して通したのか、いずれにしてもローンは通る。ローンを組めなければ建設会社・住宅販売会社の仕事はフイになるわけで、最終的には金利の高いローンに落ち着くことになるだけだ。

それより問題は、土地や建物の話をもってきてもらう不動産屋で、不動産屋がいい加減だと本当に苦労する。かくいう私も苦労した。
「あんなに小さな不動産屋では、この売買は不安ですから、当社がやりましょう」という者がいた。人がせっかくつかんだ商売を、平気で横取りしてゆく業者がいる業界なのだと、その時に知った。

「この土地をおさえるのに9万円の印紙がいります。借用書は書きますし、期日は○○ですから、まずそれを用立てていただけますか」という者もいた。それまであちこちの土地を見に連れて行ってもらった手前、貸さないわけにはいかなかったので貸したが、その話がなくなった後も返さない。なんど催促しても、期日を先延ばしにするだけ。しびれを切らして「もういい、貴君の会社にことの次第を告げて返してもらう」といったら、慌ててもってきた。ということは、当座の生活費に困って、私からつまんだだけだと分ったので縁を切った。

 ほかにも賃貸契約にさいしては、借主から敷金を納めさせて礼金をとる、何年にいちど更新料をとる、返すさいには償却料までとる。それでいて大家に不利になる借主の権利はまったく説明しない。更新料も、家賃の値上げ値下げで家主と合意できなければ払わなくていい、法定更新できると聞いて驚く人がまだ大勢いる。家主に更新しないから出てゆけ、と言われて出て行く正直一途の人までいる。そしてこれら一切を不動産屋は我々に言わない。これでは悪口をいわれても仕方がない。千三屋とは、千人の客が来ても決まるのは三人だけという業界を揶揄したことばだ。

 三人目はいい人だったから助かった。嘘をつかないし、売りつけようとしない、演説もしなかった。嫌がらずに、あちこちを見せてくれて一年以上がすぎたある日、「少しフライング気味なんですが、いい話があります」と、真実いい話をもってきてくれた。
家人は一目で気に入り、話は決まった。家人は本懐をとげたのだが、それでも、営業氏が当の話を私に持ってきてくれなかったら、家人の本懐も烏有に帰したのだ。

 以来「家を探しているのですが」という人がいるたびに、この営業氏を紹介したいと思うのだが、星はうつり、年はかわって幾星霜、いまどこの支店にいるか分らない。電話で名刺を送ってくれないか、と伝えても送ってくれないのは、あまり客と親しくすると良くないことを仕出かすと社長が心配しているからなのか。
はじめに千三屋などと書いて、不動産屋全般をわるく言ったが、こういう人もいると言っておきたい。

 
 
 

≪何用かあって、この世へ≫

 子どもは両親を選ぶことができないというが本当か。私の子供は、はじめて抱き上げた時こそ少し怪訝なようすだったが、その後は親しげだった。母親のお腹のなかで私たち二人の声は聞き知っていただろうし、だから母親のほかにもう一人いて、猫がいることも知っていただろう。まいにち食事しながら、どんな調子で会話していたかも分っていたはずだし、産科へ行くたびに毎度車に乗って行くことも分っていただろう。家の様子はだいたい知ったうえで生まれてきたはずだ。

 それだけではない、産科で看護師がエコーで赤ん坊のようすを探ろうとすると、嫌がって顔と股間をかくした。外で何をしているのかも知っていたのだ。それを見て、私たちの子供だから、さもありなん、照れ屋というより、つむじが曲がっているのだと話し合った。生まれる前から、お互いのことはある程度分っていたのだ。
 
 まだある。生まれてきてからの態度がいやに大きかったし、父母に対する態度もなれなれしい。「お母さんのこと、好き」と言って家人を手なづけるし、「これ、お父さんが好きなの」と言って電車やバイクを指さし、私を懐柔しようとする。お前たちの人間性は、だいたい把握しているという態度だ。ああいう人を籠絡する技はどこで身につけてくるものだろうか。

 このように、この子は、親のことをずいぶん知ったうえで生まれてきているぞ、という目で見ると、子供も違って見える。まず、何も知らないで生まれ落ちたわけではないから、ある程度の自信をもって振る舞っているのだ。だから、どこまで悪さをすると親が怒るか知っている。それから二才の子供のくせに、寝たふりをする、人の言うことをスルーする。寝たふりなんて、私はいい大人だけがする悪知恵だとばかり思っていたが、二才のわが子が寝たふりをするのを見て唖然とした、というより自分の管見を恥じた。

 親に恥ずかしい思いをさせるくらいだもの、きっとこの子は、親を選んで生まれてきたに違いないと、私は確信するようになった。そしてまだ明かしはしないが、何か用があって(大した用ではないが)生まれてきたのだ…
 というようなことを話すと、家人は「また妄想」という。しかし見ていてご覧、人は必ず何用かあって、この世にやってくるのだから。山本夏彦翁は「人は五才にしてその人である」と言ったが、どう考えても生まれる前からその人であるらしいのだ。

 
 
 
 

<セイリン、ブランド、プラスチックの柄>

セイリンというのはディスポーザブル(使い捨て)の治療鍼のメーカーで、日本では最大手。世界でも有数の大手で、静岡市に本社がある。もとは注射針をつくっていた。今となってはブランドであり、当然モノもいいけれど、使う人の手に合うかどうかは別問題で、残念ながら私には・・・

雨模様の患者さんも来ない午後、セイリンの営業氏がわざわざやって来たので、靴を脱いで上がってもらいました。
「どちらの鍼をお使いで?」
「神戸(かんべ)さんの鍼が好きで、長く使っています」
「カンベさんですか」
長身、色白、30過ぎの弁舌やわらかい営業職。神戸源蔵は知らないらしい。
「お宅の鍼も使っていますよ。細いのは私の手に合うので、もっぱら極細のものですが」
「今日は、新しく出る長鍼をお持ちしたのです」
取り出したのは柄がプラスチックの2寸5分(10cmほど)の鍼で、これはセイリンの特徴。プラスチックだと、高圧滅菌器にかけて再使用できないのである。
「プラスチックの鍼柄は、残念ながら使いにくいですね」
「そうですか?」
鍼を使わない営業氏に、こんな苦情をいっても仕方ないのかも。なら、なぜ社内で(内緒で)鍼の刺しっこをしないのだろう。マクラを相手に刺してもいい。

「プラスチックでは柔らかくて力が入りません。鍼体とプラスチックの接合部が、なじまないのも問題がありそうです」
と、私は神戸の鍼を見せる。鍼は筒になった金属柄に深く埋まり、ハンダでがっちり埋めてある。
「なるほど」と営業氏。
しかし使い捨ての鍼に、ここまでは求められないのも事実。
「使い捨ては、主にこれを使っています」
私が見せたのは、大阪のメーカー。
「よく売れていますね」
「値段が安いのもいいですが、ちょうどいい撓(たわ)み方です。セイリンは硬すぎるか、柔らかすぎるか極端なようです」これは事実です。柔らかい物はアルミみたいだし、硬いのはステンレスの鍼皿に落とすと、バワンと鳴る。

「当社は鍼先が自慢で、痛くないと評価をいただいています」
「よく存じあげています。しかし神戸の鍼は、わざわざ鍼先を曲げてあります」
「?」
身命をかけて痛くない鍼をつくっている会社にしてみれば、耳を疑う話です。
「体のなかで、わざわざ引っかかるようにして、治療効果が上がるようにしてあります」
ここまで聞いては、こんな所に来なければよかったと思っているかもしれません。スミマセン、鍼灸師なんて変人ばかりなので。
「お宅がディスポを売りにしているのは知っていますが、金のかかった、いい鍼をつくる部署があってもいいのでは?」これは私が本気で思っていることです。

まあ、いろいろと聞いて頂いて、営業氏の機嫌が悪くならないうちに、お開きにしました。しかし、さすがに最大手だけあって、スポーツ会場や医師の学会に出かけたり、工場見学、イベントを催したりと、鍼灸の裾野をひろげる努力をしているという話。こういうところは大手ならでは。立派だと思いました。

 
 

<インフルその後>

インフル騒動のその後です。子供はあっさりと治って、疾くの昔に元気そのもの。
問題は親のほうで、いつまでも咳とおかしな熱が出たり、出なかったり。咳が出るということは痰が出ているということで、変に粘つく黄色いような黒いような痰が出る。

あまり石油系の薬に頼るのは好きではないけれど、隣の呼吸器科へ行くと、薬をびっくりするほど沢山くれる。処方も正確なようでよく効いて、よく効けばこちらも興味がわいて、何が効いて何が効かなかったか自然に分って、次回行ったとき、あれが効いた、これも良かったと言うと、医師も喜んで、それならとまた出してくれる。
そんなこんなで、石油の薬で治まりつつある。

麻黄湯はたしかによく効きそう。とくに寒気がして、熱が出てこない場合にはすこぶる頼りになりそう。私はこれまで、何かというと葛根湯ばかり飲んできたけれど、麻黄湯はそれよりもっと強力という印象。
ただし、体力のある人むけ。体力に自信のない人が飲むと、下のようなことになる模様。

家人は性格頑固で、薬も自然薬でなければダメ派。麻黄湯も飲んでいたが、家人には強すぎて、エンジンの空ぶかしみたいな状態だったとのこと。
某氏の新聞記事にもあった、竹茹湯胆湯を自分で買ってきて、家人にはこれが効いていた様子。風邪の退却戦をうまくやり抜げるような薬方で、これで毎晩汗が出るという。私も飲んでみたけれど、なぜかダメ。もっとガツンと来る奴でなければ、効き目がない。

今回は、ともかく頭痛がひどかった。眠っていても、頭頂部にズキンときて目が醒める。あんまり痛くて、ギャッと声が出た。こんなことは初めてで、頭痛の原因が頸・肩周囲のコリ、あるいは頭部血管のうっ血だとは教科書の説明だが、あれほど痛むものだろうか? 古人は邪気が経脈に宿る、と言ったが、こちらの方が正確な説明ではないか。

ギャッと言うほどの頭痛もロキソニンで止まりました。ただし箱の説明の1錠ではダメで、治療薬の解説本に頓服としては2錠までOKとあった、こちらを援用。
だれかに鍼もしてもらいたかったけれど、それは叶わず。

 
 
 

<インフルあれこれ・・・大人篇>

先日、子供がインフルエンザにかかって、小児科医が苦りきっている話を書いたら、義弟から、インフルなら麻黄湯がよく効きますぞ、タミフル以上です、と知らせがあった。知らなかった。昔から「麻黄湯医」なんて言葉があるくらい、皆で馬鹿にした湯薬だから気にもとめていなかったが、今度飲んでみようと思う。

私は二十なん年、ニコス堂を休みにしたことがないのが自慢で、かぜ(通常の風邪ですぞ)でも、ホタテに当たっても、バイクで指をつぶしても、治療院だけは休みにしなかった。たった一度、東北大震災のときだけJRが止まったので、やむなく休業した。

自分で店を経営している人ならお分かりと思うけれど、休んだことがないのが自慢だというなら、少々の風邪や発熱、腹痛、捻挫なら店に出てきているはずである。これまで、風邪くらいで会社を、役所を休んだことなどない、という人もたぶん同じだろう。

ところが最近は、こんなことを言うと、白い目で見られるようになってしまった。
「先生、インフルエンザじゃないでしょうね?」と問い詰められたら、一巻の終わりなのだ。
本当に、しょうのない世の中になってしまったと思う。

私をよく知る患者の諸氏・諸嬢なら、知らん顔をしてくれるだろう。けれど、善男善女といわれる人たちには、どんな顔をされるか分らない。一度、あそこはインフルなのに治療院を開けていたと言われたら、万事は窮するだろう・・・

しかし考えてみれば、私も家人が熱で倒れて、半日治療を休んだことがあった。子供のシッターが見つからなくて、夕方から治療を休んだことがあったっけ・・・
私の輝かしい記録も、敢えなく潰えていたのではなかろうか、と口惜しいような、安堵するような気持ちに、今はなっているのである。もしインフルにかかったら、義弟のいう麻黄湯で乗り切ってやろうか、とも。

 
 
 

<インフルあれこれ・・・子供篇>

この1月、子供がインフルエンザにかかった挙句、私は当今の世間がインフルエンザというものに、どんな理解をしているかをまざまざと知った。

流行性感冒というくらいだから感染力は強い。むかし内田百間の一家が、当時スペイン風邪と言われたこれにかかって、看護婦を雇うのに多大な借金をしたあげく、百間先生はたいへんな貧乏になった。それで「大貧帖」の名作が生まれたのだから、あながち悪いことばかりではないはずだ。

子供の流行性感冒だから、保育園でもらってきたのである。A型かB型か知らない。家人もあまり興味がない。その家人が選んだ小児科医だから、「検査しましょうか?」とはいうけれど、心の中ではどうでもいいと思っている。子供が苦しそうにしているのは可哀想だが、熱は腹痛は全身の痛みは、やがて来てやがて去るだろう。インフルなのだから、温かくして寝ているより仕方がないのである。解熱剤や抗生物質の弊害も、みなみなよく知っている。

それでも世間は、いつ罹ったか、熱は何度あるか、ワクチンは打ったか、下がって何日目か、といちいち知りたがる。よその健康児にうつったら大変だから、という理由だが、それにしてもあの情熱の出所はもっと別の所にあるように見えて、私の見るところ人類普遍の分類癖の一種である。熱で苦しむ子供を見て、その苦しみの拠って来たる理由を暴かずにいられないというのは、なんと不思議な情熱だろう。

子供のかかりつけの医者も、それを嫌っているのである。目の前の子供には同情するが、さりとてインフルである。AかBか決着をつけ、熱が下がって何日だから、もう感染する怖れはありません、と言質をあたえるだけなら、それは事務屋の仕事で、医者の仕事ではない。それをわざわざ医者の口を借りて言わせる世間に腹を立てているのである。

インフルは昔からあった。日本に消毒が行き届いてから、ますます猖蹶をきわめるようになった。来年も再来年も、さらに跋扈するたろう。私の子供も、ますます肩身の狭い思いをするだろう。

 
 
 
 
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