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2 0 1 7 年
 

<今ごろ納得・・・モンゴルの遊牧民は、なぜ何百匹もの羊を見分けられるのか>

 

我が家の子供は2才半、仮名もアラビア数字も読めません。
パトカーや消防車など6種のジグソーパズルがごちゃ混ぜにして置いてあるのを(①)、絵を表にしてならべる(②)のはもちろん、裏返しにして完成させます(③)・・・なぜこんなことができるのか分りません。

「機関車トーマス大百科」の最後に「索引」のページがあって(④)、その周囲に「機関車トーマス」シリーズに出てくるおびただしい機関車・貨車・客車・バス・自動車などのキャラクターの、側面からのイラストが描いてあります(⑤)。豆粒の大きさですが、このキャラの名前を、エドワード、ヘンリー、トーマス、スペンサーと、次々に指差しながら、正確に言ってゆきます・・・なぜこんなことができるのか、もっと分りません。

何度もいいますが、子供は文字も数字も読めないので、絵と形で判断しているだけということになります。絵柄と形状以外の情報が頭に入ってこないので、絵の細かいところまで覚えることができるのだろうと思います。字が読めるようになるに従って、この能力はなくなってゆくのでしょう。

以前モンゴルに行ったとき(⑥)、遊牧で暮らす人々が、何百匹という羊を飼っているのを見ました。とうぜん他人の羊と混じることもあります。そんな時、自分の羊と他人の羊を見分けることができるのかと尋ねたことがあります。その人は、「できる」と答えました。
私は、想定したとおりの答が返ってきたことに安心して、どうやって見分けるのかを聞きもらしました。以来、ながい間ほぞを噛む思いをしてきましたが、その答を今になって得て、深く納得しているところです。

そういえば、モンゴルの人は草原のはての丘を越えて人がやってくる、それが誰だか分るということでした(⑦)。日本人の我々には、そんな人間すら見えないのです。

 
 

<死んだ知らせ>

 ギリシアの作家ニコス・カザンザキスは、私がニコス堂の名を頂いた作家です。代表作「その男、ゾルバ」の最終章は、物語の語り手が、友人であるゾルバが死んだ夢を見る場面です。語り手は夢で友の死をさとりますが、一瞬のちにはゾルバは生きている、と思いなおします。起きて顔をあらい、朝食を食べますが、その最中にゾルバが死んだという電報をうけとり、夢が正夢だったことを知ります。
 私も、親しくしていた者が、死に際して友に知らせを送るということは、あり得ることだと思っています。
 その一人は、国立の知り合いでした。その人の葬儀に出て、しばらく後に夢で会いました。私がエレベーターで階下に降りようとすると、その人が私の隣に立って、一緒に乗ろうとしています。
「この人は、死んだはずなのに、なぜ下へ降りようとするのか」
私は、この人を乗せてはならないと考え、また、階下に残る思いがあることも知りました。夢はそこで終わりでした。
 二人目は、わが家で飼っていたクリという猫で、あまり人馴れしない孤独な猫でした。ただ、同時に拾った片割れが、愛想のいい猫で人間と仲よく暮らしたので、クリもまあ仲よく暮らしました。
 もう老境にさしかかったころ、目に傷ができて獣医に目薬を処方されました。朝昼晩日に5回注すように言われて、昼休みも家に帰って注したのが気に食わなくて、ある日、ベランダから外へ落ちたのを境に、クリは家に帰らなくなりました。 家人は、家の周りで何度か見かけて名を呼んだのですが、それでも帰りませんでした。
 何年か経ったある朝、家人がクリが帰ってきた夢を見たのです。「あら、帰ってきたの」と玄関で抱き上げたといいます。
 もう一人、私が引越ししたのち、新しい家が気に入らなかったのか出て行った猫がいました。夕方、家に入れと呼びました。いつも逡巡しながらも家に入るのに、何故かその日は入りませんでした。こちらに背を向けたまま、振り返って私の顔を見ましたが、ふいに坂を下りて、それきり帰りませんでした。愛嬌のある猫だったので、どこかで誰かの世話になっているのだと考えていました。
 何年も経ったある朝、私が夢で会いました。あいかわらず人懐こい顔で、私にニャーと鳴いてみせます。
「元気だったのかい」
猫は大きな車のヘッドライトを付けた、一つ目の猫になっていました。
「元気でいたよ」と猫は答えます。
「またここで会おうか」嬉しさのあまり、私が言うと、猫も嬉しそうに鳴きました。
 目が覚めて、「ここで」とは、何処なのかと考えました。なんと淋しい夢だったことでしょう。約束の場所は彼岸ということのようでしたが、猫はそこで待っていてくれると約束してくれたのでした。

 
 

<たたなづく青垣山こもれる・・・患者さんとの会話>

 「英会話をおぼえて、何がしたいのでしょうか? 外人と話でもするのでしょうか?」というのは、かつて国立で英文読解塾を主催していた先生で、ともかく一般人民があやしい英語を駆使してガイジンとラーメンを食べるようなことを唾棄している人で、したがって言語をあやつる者の精神は何よりも高邁でなければならぬ、という人でした。
 イスタンブールのブルーモスクの大帝廟では、いまも日がな一日、読経が行なわれていて、アラビア語の古文など日本人の私には分ろうはずもありませんが、その朗々と誦されるお経のうしろの信仰心はなぜか分るものでした。
 先日はどうしたら漢語が読めるようになるかと訊かれて、私はとにかくいい紙にいいペンで繁体字をいとわずに書き写すことだと答えました。
「解釈はいいのですか?」
「返り点や解釈はあとまわしです。読み方も意味も、間もなく分るようになります。漢字というものが美しいと思いませんか?」
「思います」
 その答を聞いて、この人はいずれ読めるようになるだろうと感じました。
英語でも漢語でも、分らないと思っている人の大半は、区々たる単語の意味を知らないので言語全体が分らないと思っているだけです。その言語が美しいと知って、愛するようになれば、意味などは次第に分るというのが私の持論です。
 単語の意味が分らないという発想は英語の受験勉強から始まっていて、辞書をひくことを教わります。その結果たいていの人は、辞書には言葉の意味が書いてあると思うようになりましたが、そこに書いてあるのは用例で、辞書・字書をつくるときは、本という本を見て、用例を採取することからはじめます。はなから意味を書いてあるような辞書は欠陥品です。
 単語の意味よりも、その人がどんな言葉を用いてしゃべっているかが重要なことがあります。男でも「ございます」「承知しました」「存じ上げずに失礼しました」などの丁寧な言葉を嫌味なく使う人がいますが、聞いていて気持ちのよいものです。
 世の中、世界といわずに「世間」、一日中といわずに「日がな一日」、フィクションといわずに「絵空事」、こうした言葉は話ことばから出てきたもので、上手に使える人もなかなかいません。とくに女性が、こうした話ことばをうまく散りばめると、美しく、ことばに力が生れます。
 こうした言葉を話すには硬い言葉を話すことのできる口が必要で、コンビニやファミレスで用の足りる言葉を喋っていては身につきません。強靭で邪気がなく、のびのびとした言葉になれた口が必須です。
 日本のことばが最ものびのびとして、力に満ちて美しかったのは上代の言葉ではなかったかと思います。万葉、祝詞(のりと)のことばで、人が神とともに生きていた時代です。以下は、祝詞にある皇神(すめがみ)の治める国が、どんなに素晴らしいかを言祝いだ章句です。
「皇神の見はるかします四方の国は、天の壁たつきわみ、国の退きたつかぎり、青雲のたなびくきわみ、白雲のおりい向か伏すかぎり。青海の原は棹かじ干さず、舟の艫の至りとどまるきわみ、大海原に舟みちつづけて、陸より行く道は、荷の緒ゆいかためて、岩ね木ね踏みさくみて、馬の爪の至りとどまるかぎり。長道ひまなく立ちつづけて、敷きます島の八十島は、谷ぐくのさ渡るきわみ、潮なわのとどまるかぎり」
 こんなに邪気のない晴れやかな言葉で、私たちが話し考えることは、すでにないのではないか。
「意味も分らないでしょうに、どうして先生は息子さんに万葉の歌など覚えさせるのですか」と尋ねられて、大略、上のようなことを言いたかったのですが、喋っていては鍼はできないので、かいつまんで一部だけいいました。
 くだくだしいので漢字は現行のものや、かなに置き換えましたが、興味のある方は岩波の祝詞集をご覧あれという。

 
 

<骨には異常ありません>

 骨には、血液検査では、肝数値には問題はありません、と言われても、痛いものは痛い、苦しいものは苦しいんです、というのが患者さんの言い分です。
「目の周りにけいれんが起きるのですが、眼科に行ったら脳外科にまわされて、次は脳のCTを撮ります、予約が取れるのは3ヶ月先です、と言われました。3ヶ月先までどうしろと言うのですか。何よりそう言う医者の醒めた顔を見たら、もういいという気持ちになりました」という患者さんは、心底から怒っていました。
 ずいぶん前から病院が経営難であることは知られていて、それは保険診療の報酬が安すぎるからです。医師は国が決めた料金で病気をみるように決められているので、患者の数を増やすより、経営改善の術がありません。サイドメニユーを増やすように、診療内容を増やすと、保険組合からチェックが入ります。国の医療費がかさむ一方の昨今では、その保険組合も国にきびしく見張られています。
 とするなら、病院は通りいっぺんのことしかできません。でなければ、自由診療で保険を使わない治療をすることになりますが、鍼灸院をみれば分るように、そんなところに患者さんは来ません。
 ということで、治療は永遠にはじまらないか、はじまる前に患者さんが拒否してしまうことになります。まあ、そのおかげで私のような鍼灸院も成り立っているわけなのですが。
 鎖骨の痛む患者さんがありましたが、当然、鎖骨周囲のレントゲンを撮って、骨には異常ありません、と言われています。胸と背中をぜんぶ見て、脊柱と肋骨の関節に問題のあることが分りましたが、その真因も夜間の噛みしめ癖にあるようです。
 膝が痛くて病院に行き、膝の注射をすることになりますが、それで膝が治らないケースもよくあります。腰がわるくて、坐骨神経が突っ張っているケースです。
 胸が痛む患者さんは、病院に行って心臓の検査をし、問題がないので整形外科で肋骨のレントゲンを撮りました。が、やはり問題ないということになって、診察はそこで終了。私が見たところでは、肋間神経痛のようでしたが、現在では「肋間神経痛」という病名は「坐骨神経痛」とともになくなっています。
 なぜこんなことになったかというと、医療が進歩して「肋間神経痛」も「坐骨神経痛も」それを引き起こす本体の病気による、一症状にすぎないため、治療の対象として特定されることがなくなったからです。その本体を特定しようとすると、こんどは手間がかかりすぎます。 10年ほど前までは、肋間神経も坐骨神経もじっさいに痛いのだから、そのあたりで手をうって治療は始まったのです。
 私は患者さんに同情すべきなのか、診療報酬の安い医師に同情すべきなのか、 分りません。が、私の生きている場所というのは、こうした患者さんと医師とのあいだの狭い隙間なのです。

 
 

<ジンカンバンジ サイオウガウマ>

 私が帰宅するのが午後8時まえですから、夕飯は8時くらいになります。子供(2才半)は当然その前に食べていますが、見るもの乞食でそばに来てせがみます。
 私はうるさくてかないませんが、息子のことば覚えが早いのをいいことに、課題を出すことにしました。「人間万事塞翁が馬、言えたら、あげる」
 息子は餌につられて「ジンカンバンジー」と言いますが、もちろん意味など分っていません。
 それでも親は嬉しくて、晩のご飯のお菜を、ひと摘み献上することになります。
 ここまでが、息子、父親、母親の福-①
 そうすると親としては欲が出て、子供がもっと覚えるのではないかと課します。
 子供も「ジンカンバンジサイオーガウマ、カフクハ、アジャナール、ナガトゴトシ」
「ヤマトハ、クニノマホロバ、タタナヅク、アオガキヤマコモレル、ヤマトシ、ウルハシ」
「ヒンガシノ、ノニカギロイノ、タツミエテ、カエリミスレバ、ツキカタブキヌ」
と、覚えるようになりました。所々あやしくても、まあ勘弁します。
 ところが、子供は腹が空くと母親のまえに来て「ジンカンバンジー」というようになりました。しかし、のべつまくなしに食べ物を与えるわけにはいきません。子供と母親の不幸のはじまりでした。禍-①
 そんな二人の厄いを知らない父親は、今度は子供の寝物語に「いなばのしろ兎」を読むことにしました。これまで「機関車トーマス百科」を眺め、ふとんの上で飛び跳ねて、したたか眠らなかった子供は、岩波文庫の「吾(わ)れと汝(な)れと、いずれの族(うから)や多きか数えてむ」という上代のことばを聞くと、ほとんど数分で眠りに落ちることも分りました。父と子の福-②
 これを知った母親は、負けてはならじと、自分も岩波文庫を寝物語に読むことにしました。が、ふだん使いなれない言葉ですから、口がまわらず詰まります。舌も噛みました。息子は先回りして覚えたことばを「八十神ヤソカミ」などと言います。母親はたじたじです。あげくの果ては「お母さん、だいじょうぶ?」母親の禍-②
 私に報じて言うよう「さすがに気持ちがくじけた・・・」
 禍福のトータルは、今のところ父親がいい目をみているようですが、母の上にも多くの福がめぐり来ますように。

 

 
 

<高いのか安いのか、牡蠣フライ定食(4コ) \980>

夏の終わり、定食屋の主人は、カキフライは出さないと言っていたのだった。なのに私が食べたい一心で出してくれと言いつづけたものだから、とうとう出してくれた。ただ980円とは言わなかった。もっと高くてもいいと言っていたのだ。
ご存知、国立・旭通りのとんかつ屋「K」は、とんかつ定食、ロースなら780円。みんな安すぎると思っている。それを率直に訊くと「普通のとんかつ屋が高すぎるんですよ」との答え。豚肉も5キロ、10キロで仕入れれば、このくらいの値段で出せるとのこと。「まあ、ギリギリですけどね」
安いでしょ? とも、もっと高くしたいんですよ、とも言わないところが本当に立派。
問題のカキフライ、私は心配になって訊ねた。「儲けは、あるんですか?」
「一箱いくらで買うから、粒の大きいの小さいのがあるんです。その大きいのだけ選んでやってますからね。産地もいろいろあるし」
肝腎なことを言わないところを見ると、やはり儲けは無いみたいなのだ。
もっと高くてもいいと、こっちは思っているのに、主人はこの値段でも高すぎると思っている。ちゃんとしたものを出して、当たり前の値段なら、安い値段で半端なものを出すより、よっぽといいと思うのだが。
何より、自慢せず、文句も言わずに黙って一生懸命やっているのが、一番いいのでしょう。そこは、この店の特異なところだと思います。

  (ひどい日本語ですが、写真はイメージです)

 
 

<ホント、ひさびさのツーリング>

先日は、久々のバイク・ツーリング。子供が生まれてからは、行けなかった・・・
山梨県の大月で高速を降りて、10月の山の中を走って奥多摩へ。
途中の枝道、林道などをひさびさに走る。高速走行に合わせてカンカンに空気を入れたタイヤが、落ち葉ですべる。
お~、久しぶりだな、この感じ。
山を越えた小菅村でフロに入って遅い昼飯。
とうとうツーリングの途中でフロに入るオジサンになってしまったか・・・
帰り、大慌てで駐車場のある紀伊国屋で高い鶏肉と、超高いカシューナッツを買って、家に滑り込む、17:30。
子供のトーマス(機関車)がどうの、クララベル(客車)がこうの、という話に相槌をうちながら、
大急ぎで中華炒めと、スープをつくる。
18:30 いただきます。晩飯係もぶじに勤めて、休日おわり。
奥さんが、ハミングフルーツ(おすすめです)でお菓子を買っておいてくれて、ラッキー。
鶏肉のカシューナッツ炒め、我ながら美味くできた。

 
 
 
 
 

<これって、凄くありません? ・・・ニコス堂マッサージ&お灸の教室>

「ニコス堂マッサージ&お灸の教室」の参加者は今年で三年目です。勉強熱心な方ばかりなので、今年は五行の相生、相剋関係を使った治療ということを始めています。
先日の参加者の男性は肝臓のまわりが硬く、背中が引きつるということだったので、肝と肺の相剋関係を使った治療をしました(①)。

治療をするといっても、私がするのではなく、他の参加者がします。左右の腕の肺経の孔最(こうさい)というツボを、参加者ふたりでそれぞれ指圧しました。二分もしないうちに患者役の男性の肝臓の痛みと硬さはなくなっています。肺と肝の相剋関係を使った治療です。
「これって、凄くないですか?」
半分はダメもとでしたが、見事に成功しています。
二人目は肩甲骨の間の背中がつよく筋張っています。ここは肺の領域ですから、相剋関係の心包経を使えばよいのですが、患者さんの今の姿勢では触れません。そこで、その表の三焦経を指圧してみます(②)。
これも二分ほどで背中の筋張りはゆるんでいます。
「マジですか!」
治療しようという気持と、こなれた手を持っていなければ、たとえ按摩・マッサージ師の資格を持っていてもこんなことはできません。
私の教え方がよかったと言いたい気持ちも、さらさらありません。
もう一つ言わせてもらえば、こんな治療は、鍼灸学校でも教えていないものです。
この教室の参加者って、スゴイ人たちなのかもと思うばかりです。

五行の相剋を使った治療
 
 

<辞書をひきつつ精神修養>

 先日行なった、古典鍼灸の研究会で講義したものです(29年9月24日)。ふだんの生活の上では何の役にもたたないものですが、たまさかに、念入りに辞書を引いて、なんとか読めるようになるまでの過程が、とても良い精神修養になります。
唐代の人の文章ですが、中国の中世に書かれた文章でも、漢字で書いてあるというだけで、平成の世の日本人にも読めて、意味が通じるというところがスゴイと思う。
鍼灸という治療法が、古代中国に端を発するもので、漢字で書いた文書と無縁のものだったら、私はこんなに一生懸命にならなかったのではないか。二千年ほどの間に、国や時代を代表する学者が様々な研究をし、一つの文章、一つの文字が何層もの知識や意味のうえに成り立っている。なので、鍼灸をこころざすということが、自ずと学医であることが求められる仕組みになっている。
漢学というのは、本当に大した学問で、決して手離してはならないと思います。

「素霊難ガイダンス  7 素問・王冰序を読む」

精神修養
 
 
 

<君は心の妻だから>

いつの頃からか家人が「わたし、あなたの妻だから」と口癖のように言うようになった。面白半分なのだが、男はこんな冗談はいわないので辟易していると、さらに面白がって言い募る。「戸籍上の妻よ、妻なのよ~」
「戸籍上の妻なら、こころの妻は知ってるの?」
「何それ」
「戸籍上の妻より、心の妻のほうが良いだろう」
「じゃあ私、心の妻よ~」
「それ、本気で言ってるの?」
「どうして?」
「昔そういう歌があった、君は心の妻だから。鶴岡雅義のレキント・ギターが泣かせます、三條正人が聞かせます」
この歌が流行したとき、私も小学生だったから真意など分ろうはずもない。今となっては、何を歌っているのかよく分る。それにしても、君はこころの妻だからなんて、よく言ったものだなあ。
「リード・ボーカルの三條正人というのが、演歌歌手というよりホストみたいな色男で、歌もうまくて大ヒットした。もう一曲、小樽の人よというのもあって、粉雪舞い散る小樽の駅に、ひとり残してきたけれど、という歌だった」
「わかれの歌」
「たんに別れの歌ならいいけれど、一方的な別れだよ。出張か何かでそういう関係になって、小樽の駅で別れて、帰った東京のマンションのベランダで、その娘のことを思い出している、というような」
「ずいぶんね」
「こころの妻のほうも同じ。戸籍上の妻がいるのに、あやしい関係になった女が切れないから、君は心の妻だなんていって慰めている」
「そのうち、こころの妻が戸籍の妻にして、なんて言うの?」
「こころの妻にも、戸籍の夫がいるかもしれない」
「それってW不倫?」
「不倫なのか、行きずりなのか」
「行きずりって何?」
家人は、こんどは「行きずり」が分らないのである。

 

 
 

<患者さんとの会話・・・ウェイター、ウェイトレス、ボーイ、受付>

 この患者さんは、ご主人の飲食店をウェイトレスとして手伝っている人でした。重い丼や鉄板を運んでいると親指の腱炎になりがちですが、この患者さんもそうでした。
指を一本いためると肘や肩まで痛くなるものですが、この方も肩甲骨の縁まで固まっています。
おまけに「ばね指」といって、指が伸ばせなくなっています。起き抜けには、お湯にでもつけないと伸ばせません。
治療の第一選択肢は、休養です。
「治療して痛みが治まるのはいいのですが、休ませないと、また痛みは戻ってきますし、ばね指も治りませんよ」
「でも、休めないんですよ」
「奥さんが復帰するまで、アルバイトを雇うというのは?」
「私がしているのは、単純なウェイトレスの仕事じゃなくて、リピーターの獲得なんですよ」
ここまで話して、自分の考えの浅さに恥じ入りました。思えば、厨房や治療室で主のしている仕事を、接客と称してぶち壊しにしている奥さんはたくさんいます。奥さんとご亭主が逆の場合も見てきました。
私が店に出ると、お客は私に遠慮して主人に言いたいことを言わなくなる、という賢い奥さんもいて、この人は目医者の奥方でした。
おそらく件の患者さんのご主人も、若くて勢いがあるだけのアルバイトを置いて、自分の店を台無しにされることを、いちばん恐れているのでしょう。
この話をして、それなら食べに行ってみようか、という嬉しそうな顔をした人は、一両人ではありませんでした。皆、テレビ番組のように「うまい」「おいしい」だけで食べに行くわけではないのです。
ウェイターの仕事の恐ろしさを、あらためて教えられた一件でした。

 
 
 

<久しぶりの新刊本・・・「アルカイダから古文書を守った図書館員」>

 久しぶりに単行本を買って読みました。週刊文春の読書欄で、アフリカのマリ共和国のトンブクトゥという古い町に、昔から伝わるコーランやその注釈書、科学書、法律書、詩集などが膨大に保存されていて・・・、と読んだだけで夢の世界に連れてゆかれたような気分になってしまいました。
トンブクトゥは、15年ほど前までパリ-ダカール・ラリーがアフリカで開かれていた頃に馴染みになった町。トンブクトゥという不思議な名前は、一度で憶えました。郊外に「象の岩」という、これも不思議で巨大な岩があって、ラリーの有名な目印になっていたはずでした。
サハラ砂漠の西の果ての町に、そのような古い学問や文化があったというのも初耳でしたが、この本の主人公であるアブデル・ハデル・ハイダラがトンブクトゥに図書館を作ろうと、ヨーロッパに働きかけるまでは、やはりサハラの西にそのような中世の文化があったとは知られていなかったとのこと。
こういうところで吃驚するのも、ヨーロッパらしいところだな、と日本にいる私は感じるのですが、ヨーロッパの歴史が独自のものになるのは産業革命以降のことです。ローマの統一帝国も、ルネサンスも宗教革命も、中国、アラブ世界にはありました。そして、いずれもヨーロッパより早く出現しています。イランがアケメネス朝の古代帝国を作ったのがBC6世紀、中国の秦の帝国統一がBC3世紀、ローマの帝国統一はそれに遅れること200年、BC1世紀でした。中国のルネサンスは12世紀、宋代に起こっています(ヨーロッパでは14世紀)。アラブの宗教革命は6世紀にマホメットが起こしています(欧州15世紀)。4世紀にゲルマン民族がヨーロッパに大移動して、現在のフランスやドイツなどができましたが、いまやアラブ人がヨーロッパに大移動して、ドイツを席巻しています。
文芸復興や宗教革命を早く起こしたから偉いのだ、とは申しませんが、私はヨーロッパの文化の若さが、欧州に勢いを持たせてきたのだと思っています。文化も文明も命とおなじで、いずれ衰えて火は消えます。欧州のアングロサクソン人は、アメリカ大陸に渡って最盛期を迎えましたが、それも下火になりつつあります。        アブデル・ハデル・ハイダラ

  さて、この「図書館員」がアラブの古文書をトンブクトゥからマリ共和国の首都バマコに移したのは、北からイスラム教の急進派(アルカイダ)がやってきて町を占拠しようとしたからでした。イスラム教は偶像の崇拝を認めませんから、本も焼かれると思ってのことです。で、40万冊近い図書を首都に移すのですが、このくだりは余り面白くなかった。
私が興味をもったのは、中東だけでなくアフリカにもイスラム急進派のテロリストが活躍したということでした。マリの場合には、マリから独立したいと願っているトゥアレグ族の独立運動と手を組んででした。私などは、アルカイダというとアフガニスタンのものだと思い込んでいましたが、これはアメリカ経由で入ってくる話だからそうなるわけですね。マリの場合は、かつての相宗国がフランスですから、フランスが躍起になり、最後には軍隊を送り込みます。こうしたアフリカでのアルカイダと現国家、かつての相宗国の苦労が興味深いものでした。
残念なのは、この本の著者がイスラムの古文書についての知識を持っていないらしいことです。そのため、ハイダラがニジェール川に沿った各地を巡って集めた書物に、具体的にどんな価値があるのか、さっぱり分らないのです。書誌学上のことが少しでも説明されていたら、この本はもっと興味深いものになっていただろうと思われます。 

※「象の岩」はモーリタニアのティシットという町にありました。

          象の岩

 

<宗教の力>

  NHKドキュメンタリー「告白~満蒙開拓団の女たち~」を見た。
「私たちは、ロシアの兵隊の接待をするのだと親に聞かされて、そこへ行った。が、お酌をするわけでもなく、布団がたくさん敷いてあった。ロシアの兵隊は危ないものでも触るように、鉄砲の先で私たちを突き動かして、私たちは怖いものだから、隣の子と手を握りあって、お母さんお母さんと泣いていた」
戦前、日本の各地から満洲、モンゴルに人がわたって、農地の開拓をした。開拓にあたっては、中国人から土地を取りあげたり安く買い取った。そこでできるじゃが芋はおいしく来る年も来る年も豊作で、まさに王道楽土だった。
しかし、太平洋戦争が末期になるとソ連軍が侵攻してきて、私たちを守るはずの日本の関東軍はまっ先に逃げた。後からは中国人が真っ黒になるほどやってきて、日本人の開拓地を取りかこんだ。
中国人は、さきの恨みがあるから時計でも服でも取ってゆき、最後には殺そうとした。殺されるまえに集団自決した開拓地もたくさんある。自決には、薬を飲んだ。
私の父親だけは、天からもらった命だから粗末にしてはならぬと言って、開拓地の皆に説いて、唯一助けを求めることのできるソ連の兵隊のところへ馬に乗って駆けた。
はたしてソ連は、中国人から守ってくれたが、その見返りに女を求めたのである。
開拓地の大人たちは、結婚した女はさすがに無理だが、娘ならと応じたという。娘たちは、親のためならと泣いて我慢したという。妹のぶんも務めますという姉がいたという。
戦争でも地震でも民族の大移動でも原子力発電所の事故でも、非常時にもっとも憂きめを見るのは弱い者で、その悲痛は筆舌に尽くしがたい。しかし「親のため」「弟妹のため」という儒教の教えは、道徳であり宗教である。平素、私たちはシューキョー、ドートクといってこの二つをあざけるが、絶体絶命のときにもそうか。神にすがることで土壇場が切り抜けられるなら、それでよい。宗教が人を救う力は偉大だと、私はあらためて銘じた。
生きて日本に帰った彼女らは、いったんは故郷に帰ったが、満洲に渡った者には何があったか知れないと、ふるさとでは爪弾きにされた。その中の何人かは、別の土地に移り、おなじ満洲に渡った男と所帯をもったという。やっと一頭もった牛も40頭にまで殖えて、子供も四人いる。
「あの人は、私に何があったかみんな知っていて、一緒になってくれたのです。私たちは死ぬよりもひどい目にあったのですから、何も怖いものなどありません」

 
 

<患者さんとの会話・・・プロの真剣勝負>2017-07-29

「男はつらいよ」の中にこんな場面があります。寅次郎の家に泊まっている老人が、お礼だと色紙を描いて、神田の○○書店に持ってゆけと言います。その古本屋に持ってゆくと、はたして色紙は売れて7万円の金ができます。老人が名のある日本画家だと知った寅次郎は、今度は困って いる友人のために、もっと大きな絵を描いてくれと、その老人の家に行って頼みます。しかし今度は、その老人は断ります。
「絵を描くのは私の仕事だ。仕事である以上、真剣勝負だから、かんたんに描くというわけには行かない。ただ、その困っている友達のために、いくらか用立ててあげることならできる。いくらだ?」
それを聞いて、「そんな金なら要らない」と、今度は寅次郎が断ります。
寅次郎は、老人にとっての絵を描くという所業がどんなことか分らなかったので、こんな喧嘩になったわけです。
さて、昨日の話です。
その患者さんは声楽家でした。彼のいわく、
「歌を歌うときは、体に無理のない状態で歌いたい。無理をかけて歌うと、その癖が抜けなくなって、もとに戻すのに時間がかかります」
その前日の患者さんはプロのダンサーでした。
「呼吸と合わない踊り方をすると、筋肉をいためるのです」
期せずして体をつかって仕事をする人が、同じことを言っているので驚きまし た。この人たちの「真剣勝負」のポイントが、ここにあるのだと知った瞬間でし た。
歌を聞くことも踊りを見ることも大好きです。しかし歌がうまい、踊りが上手 というところだけ見て、その人がどんな境地で歌ったり、踊ったりしているのかは、意識して見ていなかったように思います。踊りなら笠井叡、芦川羊子、岩名正記といった人の踊りに、そうした境地が見えたことがありました。舞台にいる人と同じ境地に連れてゆかれる経験をすると、二度とその舞台のことは忘れられなくなります。
You Tube ばかり見ているせいで、こんなことになったのかもしれません。

 
 

<インタビューとカウンセリング> 2017-07-13

 昨夜は「まなびば」の岡田康之先生の教室で、お互いにインタビュー形式の取材。自分が他人にどう見られているか、という所が眼目で、自分の知らない自分を探す。これを元に自分の像をあらためて見直して、商売に反映しようというテーマ。7名の参加者でした。
イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニに「インテルビスタ」という映画があって、これは英語のインタビューのイタリア訛りです。若い気弱な記者が映画スタジオの大女優、名優などにインタビューして回るお話。映画の冒頭、監督であるフェリーニ自身が出てきて、記者役の若い俳優にメイクする場面があります。
「君の鼻の横にニキビを描こう。君のような若い男が鼻のよこにニキビを作って女性のまえに出るとしたら、どういう気持ちになるかな?」
意地のわるい設定ですが、絵空事である映画というものの本質をよくあらわしているエピソードです。
一方、私のような鍼治療の場にはカウンセリングというものが、どうしても必要になることがあります。カウンリングは取材ではなく、患者さんに、ことの本質や問題に気づいてもらうための作業です。患者さん本人が自分で気づくためのものですから、こちらからアドバイスめいたことは言わず、聞くことが中心になります。話してもらうために相槌をうったり、うながすのが仕事になります。
あくまでも患者さんに気づいてもらうのが肝要だというのは、こうした答というのは、それを他人から聞いたのでは無益になることが多いからです。下手をすると、答が合っているだけに反発されることになります。「本当のこと」は言ってはならないのが世の中なのですから。
患者さんの中でそろそろ答が出ているな、と分った頃に、こちらから水を向けてみることはあります。時には強く出て、答を認めてもらった方が効率がいい場合もあります。まあ、その辺のところは臨機応変です。
もちろん何が答なのか、聞く側も話す側も分らない場合も多いのですが。
それでも10年かかって「私はお酒が止められないのです」と言えた人がいました。たったこの一言をいうために10年も鍼に通っていたと思うと、大変な道のりです。しかし、ここから患者さんの生活は確かに変わり、「今、夫婦で断酒しているんです」というところまで来ました。酒を止められない人に、いくら止めろ・断酒会に参加しろといったところで、止められるものではありません。自分で止めようと決意するしかないのです。
昨夜のインタビューですが、私はされる側に回ると、何となく相手の人が私のストーリーを作りやすいように話をしてしまっているのです。これは良いことなのか悪いことなのか。そういえば相談に来る人というのも、もう自分の中で答が出てしまっている場合が多いわけで、本当に困っている人というのは、どう人に相談したらいいかも分らないのでしょうね。ですから10年もかかるわけで。

(確かにニキビをこしらえた顔でこんな女性のまえに出るのは・・・。が、これは全盛期のアニタ・エクバーグ)

anita ekberg

 

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