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巨刺と互刺、その他
鷗外の妻、森しげ傳記
 
 
 
2 0 1 9年

 

< 中村哲氏死亡…上医は国を治す >

中村哲氏が銃で撃たれて死んだと、きのうニュースで知った。アフガニスタンで、あまりに大勢が病気で死んでゆくさまを見て、日本男児として見捨てておけない、と言った人だった。当時おおくのスポーツ選手が「日本のチームで戦うことに誇りを持っている」と言いはじめたところで、彼我の言葉の重さのちがいに私はうんざりしていた。

9・11のテロがあったときも、筑紫哲也の番組に電話のコメントをしていた。日本の誰も「タリバン」というものを知らないときだったので、筑紫哲也は中村氏に電話したのだった。このとき、中村氏が何を言ったのか憶えていない。二言三言ぼそぼそと喋っただけだったが、そのあとに筑紫哲也がしゃべると、中村哲という人の言葉がどれだけ重かったか分かって、慄然とした。

話はちがうが、つい先日私は、佐藤優が自分の外交官生命を失ったことについて、どんな見方をしても運命だろうに、それが運命だったという言い方をしていないのが不思議だと書いた。何冊か読みすすむにつれて、この人は仕事をしすぎたのだと、私も気づいた。金のために仕事をしているうちはまだいい、問題なのは、正義のために仕事をしはじめたときだ、とこの人自身も書いている。

佐藤優という人は、外務省に対する背任、金の横領などは一切していない。2000年までに北方領土問題を解決して、ロシアと平和条約を締結するという目標に、文字どおり全霊をかけた外交官だった。その先鋒となった政治家が鈴木宗男だった。

罪を着せられたのは、小泉政権誕生という時代の変わり目にあって、前の時代の終焉を国民に示すために犯罪がつくられたのだと、自分で解説している。この見方に、佐藤氏を取り調べた検事も同意している。不思議な光景だが、取り調べの現場は、どちらが主導権をにぎっているのか分らないような光景だ。

大義があると人は無茶をして、犯罪でも革命でも起こすようになる。佐藤氏を取り調べた検事も、「佐藤さんは仕事をしすぎた結果、世間の常識とおおきく離れてしまった。私たちは世間の側に立って、その隙間に犯罪を組み立てるのだ」と言っている。

中村哲さんも、我知らず無理をするようになっていたのではないか。アフガニスタンで運河工事をしながら、なお且つ家族の食い扶持は日本で仕事をして稼いでいる。それ以外の時間を、アフガンに行っているのである。ここに無理がないわけがない。それで銃で撃たれていいわけもないが、これが運命だとすればあまりに酷い。

中国は文字を大事にする国で、由緒ある文字は歴史をこえて伝える文化がある。そのなかに「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す」というのがある。中村哲という人は、まず古タイヤでサンダルを作ることを土地の人に教えて、足の怪我から病気に感染することを防いだ。つぎに土地の人ができる井戸の掘り方と補修の技術を教えて、水不足から生じる病気を予防した。つぎにこれも土地の人ができる技術で灌漑用水路を掘って補修のしかたも教えた。その結果、農地はひろがり、町へ出てゆくだけだった人は、故郷にとどまることができた。まさにアフガニスタンという国を治した医者だった。

 
中村哲氏死亡
 
 

< 父祖の言葉 >

この頃、子供はいつまで親のものか、というようなことを、考えるともなしに考える。ラグビーの選手がボールを抱いて走る、あんなに体が大きく、タックルされても振り切って逃げるのだから、いい大人なのだと安心していることがある。何度か言ったことだが、サッカー選手はラグビーに比べて圧倒的にチャラチャラしているから、子供なのかと案じることがある。今回のラグビー・ワールドカップの日本ナショナル・チームの日当は一人1万円だそうで、サッカーならそんな馬鹿なことはあるはずがない。手間賃と大人度合いは比例するのかしないのか、私の思いは千々に乱れるのである。

「私がなんど言ってもダメだから、あなたからちゃんと言って下さいな」と家人から頼まれたのかどうか、風呂か寝床で息子(4歳)に一言か二言、いって聞かせたことがあって、伝わったのか、いないのか、ともかくも「わかった」ということになって終って、それ以後どうなっているのか。保育園での息子の様子が変わったとも聞かないし、家でも相変わらず母親に甘えたり、小馬鹿にしたりしている。私はといえば、そんなものだろうと思っている。

経済的に自立すれば、大人になったことになるのか。そうではあるまい。私は若い患者さんに、貴君貴嬢は生まれてきて良かったと思ったことがあるか、と聞くことがある。「生まれてきて良かった」なら流行歌の歌詞に山ほどあるのを週刊誌で知っているから、「親に対して、ありがたいと思う?」とかさねて聞くこともある。私は若い時分は、親に感謝したことなど微塵もなかったからだ。

「じゃ、先生はいつから両親に感謝するようになった?」「そのきっかけは、何?」と畳みかけて聞いてくる者がある。何もきっかけは無い。自然にそう感じるようになったのだ。これは嘘ではない。しかし人は皆、自然にそう感じられるようになるのか。

私の父親は、学校の勉強をしろとは、ついぞ言わなかった。大学を卒業する時も、勤めはしないといったら、そうかと言っただけだった。「どこでなりと野垂れ死にせい」これも何度か聞いた。これらは今でも謎で、この謎は年を経るにしたがってますます深まる。私は自分の息子に、こんな大らかなことが言えるのか。

中学生になって、何か欲しい物はないかと聞かれて、本が読みたいのだと言ったら、本ぐらいお安い御用だといって本屋に連れていってくれた。年と星が移りかわって、治療院を開きたいのだ、と借金を頼んだときも、金額を聞いて、そのくらいお安い御用だと貸してくれた。

お安い御用だとすんなり肯うことが、子供のために悪いこともあるだろうに、そこまで考えたのか、考えなかったのか。父親のどんな言葉も、真意は謎であって響きだけが残っている。思えば謎のような言葉をとおして、父親の父親、そのまた父親、とおい父祖からの響きだけが伝わっているもののように思える。とするなら、私も私の子供も、遠い父祖が手をかして育ててくれているのか。

「他人の飯には骨がある」「何であれ根気よくやれ」「今日も一日、ようよう三度の飯がすんだ」いま思えば、これらは私の父親自身の言葉ではない。父が遠い祖から聞いてきた言葉なのである。

 
 

< 加藤郁乎 ふたたび >

「九々表にないいとこ半の通夜に来てゐる」「片手に落ちて品詞の蝶の荘子それがし」「いびつの夢には腰を使ふ前世のだくあし」「愛であるの浅墓さはれこぞの雪にさはれよ」加藤郁乎は1960年代にこのような句を詠んでいた俳人である。私は80年代になってから、こんな句を読んでシビれ、早稲田の古本屋に通って句集をさがした。

ある患者さんに、谷崎ならこれ、川端康成ならこれと教示をうけて川端の「山の音」を読んだ。いま思えば、川端康成よりも、患者氏の文学に対する熱に私は動かされたのだ。この熱がきっかけとなって、久しく読むことのなかった加藤郁乎の句集を開いた。

「冬の波冬の波止場に来てかえす」「七月のぴあにっしもの沙こぼれ」「殺し場の花とねりこのひこばえや」「一行のイデエ流るゝものを涸らす」「切株やあるくぎんなんぎんのよる」これは1959年の第一句集で、師は吉田一穂だった。

70年代になっても「いかものかは鴫立つ沢のスピノザーメン」「ままよ阿魔なす玉子とぢのおことてんかな」「はーと微塵な義妹ら乳ら血をしけるかも」とテンションは落ちなかった。後年は、俳諧研究に没頭して、こういった切っ先鋭い句は詠んでいなかったはずである。

私が大学を卒業したころが80年代の始めだったから、加藤郁乎をはじめとして澁澤龍彦、土方巽、唐十郎といった一連の人たちに惚れこんだ。それはそれとして終って、ふたたび加藤郁乎が私に現れたのは2001年に「後方見聞録」(1976)が増補されて文庫になったときだった。週刊文春の坪内祐三のコラムで見て、すぐに読んだはずだから、すでに18年前のことだ。

増補の内容は、欧州文学の翻訳家である矢川澄子と加藤郁乎が慇懃を通じていたということで、矢川はそのころ澁澤龍彦の妻だった。澁澤と加藤自身も通じ合うところ大きく、加藤も当初は澁澤がそれと知りつつ無言であることに、むしろ大人ぶりを感じていたふしがある。

しかし、後に不貞の妻として離縁された矢川のもとに澁澤から送られてきた写真が、すべて二つに切られていたと知らされたところから、加藤の澁澤に対する気持ちは糸のごとく切れたと書いている。澁澤という人には、文学的な才能にかかわりのない、人の気持ちを朽ちさせるような、何かつまらない物があったのだろうと思う。

加藤は2012年に亡くなっている。澁澤は1987年亡、矢川澄子2002年亡。加藤は何を思って、このような増補稿を書いたのか。四度にわたって妊娠中絶させられた矢川があまりに哀れだったからか。澁澤龍彦といえば、当時のスターでありヒーローだった。私は加藤郁乎には、澁澤のつまらなさを教えられた恩義も感じている。

 
 
 

< 男は八の倍数、女は七の倍数 (1) >

「男は八の倍数、女は七の倍数の年齢ごとに体の調子が変わる」と中国の古い医書に書いてある、というようなことをテレビのCMなどで言うことがあります。こういう、いかにも人口に膾炙するようなことは、よくよく調べてみる必要があります。幸いにこの七月、「子宮下垂・子宮脱に対する鍼灸治療」というテーマで話をする機会があったので、関係のありそうな中国の古医書を読んでみました。

中国の古典書は、「経」という歴史をこえて伝えられてゆく大事な書物があって、医書としては「素問(そもん)」と「霊枢(れいすう)」というのがこれに当たたります。この二冊に対しては歴代の王朝が研究者を集めて研究させ、注釈という形で研究成果を次代に残しています。

そういう「経」ですから、あまり下卑たことは書けません。この「八の倍数、七の倍数」の条文自体は、素問の「上古天眞論」にありますが、その基になっているのは、素問が登場する以前に書かれた「馬王堆(まおうたい)文書」という文書のなかにある「七損八益」の考え方です。これは気を保つうえで七つの損ないと八つの益があるという内容で、損なう行ないを節制し、益ある行ないを増せば、長生きできると伝えています。

しかしながら、この七つの損ないと八つの増益というのは、実は房色にかんする七損と八益のことなのです。だから素問や霊枢といった経には、大っぴらには書くことができません。それで、男は八の倍数、女は七の倍数の年ごとに体の節目が来るなどと、ピントのずれたことを書いて済ませているのです。

実際に唐の時代に素問を注釈した王冰(おうひょう)は、「能く七損八益を知れば則ち二(陰と陽)は調う可し、此れを用いるを知らざれば則ち早く衰うるの節(しるし)なり」という素問の条文に、「用いるとは房色を謂う也」とはっきり書いています(素問・陰陽應象大論)。房色ですから閨房術、はっはりいえば性技のことです。中国にも、インドのカーマ・スートラのような性愛論があったのでしょうか。

続きは次回に書きますが、中国にも性愛論がありました。そしてそれは、中国本土では失われて、日本で書かれた「医心方(いしんぽう)」の中に、生々しい形で残されていたのです。
http://nikosdou.net/lecture%20PDF/lecture41_0107_uterus.pdf

 

< 男は八の倍数、女は七の倍数 (2) >

いろんな意味で興味津々ですが、この七損八益を説いた馬王堆帛書には、じつは抽象的なことしか書いてないのです。いわく「八益とは、一に氣を治むるを曰ふ。二に沫を致すを曰ふ」といった具合で、何を言っているのかさっぱり分らりません。しかし、これを具体的に解説した文書は、日本の「医心方」にあります。

「医心方」とは12世紀に、日本の丹波康頼によって書かれた医書です。丹波康頼自身が中国からの渡来人でしたから、恐らくは日本に渡るときに沢山の中国の医書を携えてきたのでしょう。現在、中国では失われた多くの医書が、この「医心方」のなかに引用されています。

医心方28巻の「和志」に、この馬王堆医書に係るとされる記述があります。八益の第五は「五に沫(唾液)を和すを曰ふ」とありますが、医心方には「男は女の下脣を含み、女は男の上脣を含み、一時に吸い合って、その唾液をすする」とあります。なるほど、こんなことを言っていたのです。

もう少し前後を引くと、こんなことも書いてあります。「初めて交會する時、男は女の左に坐り、女は男の右に坐る。男は足を投げ出して坐り、懷中に女を抱く。つぎに細い腰を引き寄せ、玉體を撫で、やすらかな文句を言い、深いつながりをかんじさせる言葉を述べて、心と思いを同じにする。そして抱きながら引き寄せながら…」というわけです。もう少し先には、「令女手、把男玉茎、男以右手撫女玉門」とあり、「男感陰氣、則玉茎振動。其状也哨然上聳若孤峯」ともあります。

この文を実際に書いたのは、洞玄子という中国人です。名前からして道士(道教のお坊さん)です。これを最初に読んだとき、私は中国にも性技の指南書があったのかと考えました。次には、これは洞玄子の性技自慢ではないかと考えました。エロ本ではなさそうです。

なにしろ、七損八益の実体と云うものは、このような房中術であるということを、私はこのとき知ったわけです。そして、経である素問に採用するにあたっては、かなりきれいな装いに替えて採ったということなのです。これについては、私の7月の発表に、もっと詳しくありますので、さらに興味のある方はご覧ください。
http://nikosdou.net/lecture%20PDF/lecture41_0107_uterus.pdf

また、今回私の見た医心方は、慶應大学メディアセンターが公開しているもので、先日紹介した「蘭軒醫談」などとともに、こうした古文書は、現在さまざまな大学や図書館のサイトで見られるようになっています。
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/koisho/f-i-70-1

 
 
 

< 心のデフレ、不幸好き >

  毎月第一日曜は古医書の訓読会をニコス堂で行なっていて、40,50,60,70代初めのメンバーが集まる。ちなみに60代が私。40代男子の悩みは、\5,000払って治療に来てくれる人がなかなかいないこと。東京の鍼灸治療の料金の相場はこの\5,000円で、都心に行けば\6,000~7,000になる。たしかに今時の\5,000はすんなり払ってもらえる金額ではない。何が悪いのかという話になった。

  40代男子の意見は、日本はすでに世界の貧国の一つになったが、当の日本人がそれに気づいていない、と。その例として、パリの家賃相場は東京の4倍である、昼の外食値段が\500など欧米ではありえない、世界各地からこれほど日本へ観光に来るのは日本の物価が安いからである。皆々自分の給料を削って安い品物を提供して、その結果、自分の暮らしも成りたたなくなっている。

 「日本では、当たり前のお金をかけて製品を作っても売れない。会社や施設の設備、社員にお金をかけても、品物が安いほうが喜ばれるので、畢竟、安物を作って売るようになる。その結果、社員の給料はどんどん下がった。当たり前の金をかけて作ったものは、海外で売れるから、日本の会社は海外を相手にするようになった」

 私もこの意見には賛成だ。いつから日本全体が、こうも安物好きになったのだろう。パンひとつ作っても、当たり前のものを作ろうと思えば\150になる。が、\150円のパンというと、みな目をむく。いまどき国内の原料を使った昼飯を食べようとすれば\1,000かかるが、\1,000の昼飯など敬遠される。

そのくせ中国の野菜や肉はクスリで汚染されているといって怒る。行政が金を使いすぎる、大臣が都知事が給料をもらいすぎる、といって怒る。苦しい思いをして生活を切り詰めるのはいいが、それを他人にも強いて、なおかつ行政が芸能人が不行き届きをしないか夜の目も眠らずに見張っている。いつから日本人は、こんなに不幸が好きになったのか。デフレとは、この「不幸好き」のことに他ならない。私はニコス堂のサイトに、心がデフレを起こしていると書いたことがある(http://nikosdou.net/mental_depression_society_2.html#A)。日本人は自分で自分の首を絞めているだけなのである。

 50代女子の意見はこうだった。「物価が高くなって物がどんどん売れるのはいいけれど、その結果がマイクロ・プラスチックの問題とかじゃないんですか」
これも痛いところを衝いている。マイクロ・プラスチックの問題はゴミ回収の問題で、経済成長とは切りはなすべきだとも言えるが、それ以上に人間の傲慢さの問題なのだ。

 「高い成長を望まずに、低いところで淡々とやって行くのがいいのでは? 私たちの内経医学の老荘の考え方に、まさにぴったりです」
「しかしそれには、国全体が小魚を煮るような国にならなくてはなりませんよね」
「小鮮を烹る如しですか」
「いやいや、ひとつの国だけではだめで、世界全体がそういう考え方にならなくてはダメですよ」
「夢のまた夢ですかね」

 
 
 
< 信じがたい病気治療の話・・・「蘭軒医談」から >

いつぞや江戸時代の医家の話をちらりと書きましたので、それについて書いてみましょう。森立之という人は私の敬愛する医家ですが、その師匠が伊澤蘭軒という人でした。蘭軒については、森鷗外も史伝を書いています。

蘭軒の診ていた患者に60過ぎの熱性感染症の男がありました。病は極まり、舌も黒くなり、数日来食べることもできないため、もう死を待つだけの状態でした。折悪しく文化3年の大火事がおこります。朝10時に芝町から出火し、木挽町、数寄屋橋から京橋、浅草橋、神田、浅草まで焼けた江戸三大火事のひとつでした。焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われています。(病人がどこに住んでいたかは、残念ながら書いてありません)

家族は病人をともなって逃げますが、火足が速く、たちまち火に囲まれてしまいます。是非なく病人を戸板に寝かせて、おじいさん、勘弁しておくれ、と逃げることにしました。せめて水のそばに寝かせようと、川べりまで戸板を運んで逃げたと言います。

病人も無我夢中でした。なにしろ高熱にうなされて死に瀕しているにもかかわらず、火事の真っただ中に置き去りにされてしまったのです。しかし幸いに、火の手は老人の戸板にまでは迫りませんでした。おまけに夜半になると潮が満ちて川の水が増水し、戸板も着物も浸します。気がつけば老人は、川の水までずいぶん飲んでしまったようでした。

「段々ト正気ニナリ、ソノウチ潮ヲモ大分飲ミタルヨシ、遂ニ服薬セズシテ全快ニ及ベリ」と蘭軒医談にあります。夜が明けて家族は、おじいさん、どうなっただろう、と恐るおそる見に来たことでしょう。昨日まで瀕死だった重病人は、一晩水に浸かり、水まで飲んでしまったため熱が去り、全快していたのです。

これは「灌水の法」という、高熱がつづく場合に全身を水に漬けて冷やす治療法を、図らずも行なっていたわけです。伊澤蘭軒も自分の患者が、まさかこんなことで治っていたとは驚倒したことでしょう。そして知己に力をこめて話したことだと思います。蘭軒自身は本を書きませんでしたので、弟子の森立之が明治になって、このことを本に書いたわけです。

私も、欧米では風邪などの高熱のばあい、子供でも水に漬けて治す、と聞いたことがありましたが、体力のない東洋人には不向きではないかと考えていました。しかし、実際に治癒した例をここで初めて読んで驚きました。

この「蘭軒醫談」も、現在では京都大学図書館が公開しているので、インターネットの上でも読むことができるようになっています。
 
蘭軒醫談
 
 

< ニコス堂鍼灸院 開院25周年 >

ニコス堂はこの6月で開院25周年を迎えました。で、まずは写真のような文句を作ってホームページにアップしました。

自分の仕事を振り返ってみると、新規患者が来なければ未来はありません。いま来院している患者さんを大事にすることはもちろんですが、それだけではジリ貧になります。

新規患者に来ていただく際に大事なことは、こちらから注文することは憚られますが、新規の病気・症状を持ってきていただくことで、これまで治したことのない病気・症状の治療をさせてもらうことが何より重要だと、20年を過ぎた頃から考えるようになりました。

未見の病気・症状が診られるという事は、つまり技術的な向上があるということで、鍼灸師にとっては必須のことです。この点では、ニコス堂はかなり恵まれていました。最近では子宮下垂の患者さんを何人か連続して診られたのに引き続いて、さらに重症の子宮脱の患者さんを治療する機会がありました。また、どんな治療家がやっても難渋する皮膚炎・湿疹や、ムズムズ脚症候群の患者さんも診ることができました。「こんな症状ですが、鍼で治りますか?」と訊かれることほど嬉しいことはありません。

正直にいえば、治らないものもありました。木村病、過食症の患者さんなどは、今も忸怩たる思いがあります。これについては自分の力不足を認めて、将来に期するしかありません。

それからもう一つは、師にも恵まれていたと言わなければなりませんし、古医書を共に読む仲間に恵まれていたことも大切なことでした。師に対しては学恩と技術を教えて頂いた恩があります。勉強仲間には、自分の仕事に厚みを持たせてくれる恩があります。

そういう次第で、すべては来院して下さった患者諸氏のおかげです。有難うございました、これからもよろしくお願い申し上げます、と衷心より爾か申し上げます。

 
 
 

< 凡そ花の紅紫の者は、血分に走り清熱の功あり >

この春は、花の写真を撮って歩く。植物は昔から薬の素材で、インターネットで調べれば漢方名もすぐにわかり勉強になる。敬愛する森立之先生を読む方々、植物の性質もおぼえられるといいのだが。

森立之は江戸末期から明治にかけての本草学者。本草がこの人の本命だが、漢学全般に通じていた碩学であった。福山藩の医官だから家業は医者だったが、自身の「医は学たるべし」の銘のとおり、医学を中心に研究書(注釈書)を多数著わして、考証学の世界では中国・本邦を通じて随一の人であった。

実は立之は31歳にして失禄していて(その後、帰藩)、それというのも、それまでの不行跡がたたって藩主阿部公の怒りを買ったからである。この間12年、妻子・老母をともなって相州をさまよっているが、驚くことに自身の本草学を養ったのもこの失禄時代である。

この時期のことを書いた著書に「遊相医話」というのがあって、神農本草經や傷寒論あるいは素問の注釈書のような格式ばった著書でないため、木活字の一見粗末な本だが読みごたえがある。スミレに関しては、以下のようなことが書いてある。

「花の紅・紫のものは血に作用して、血の熱をさます効果がある(ベニバナ、スミレ)。紅・紫の花には白に変わる性質を持っているものがあって、菊などは白花を一種に持っている。この白菊も、日を経れば紅色を帯びてくるものである」〔森立之・遊相医話〕

森鷗外は伊澤蘭軒一家の人々を愛するあまり、自身が考証学者になった趣があったが、立之は本草学者というより、すでに博物学者になった観がある。

 
スミレ
 
 

< 「令和」の令は、マ or  卩? > 

新元号は令和だそうで、4月1日は患者さんもこの話題でもちきりでした。官房長官が新元号を入れた額を手にして発表するビデオは、後々まで使われるわけで、今も平成が語られるときは当時の小渕官房長官の映像が流されます。

「令の中はマじゃないんですか? おかしいですよね」というのは、教科書字体できちんと勉強してきた人で、明朝体の字は中の棒が垂直。私もどちらが正しいのか分らかなかったので、字書をひきました。ちなみに、あの額の書をかくのは内閣府の筆耕だということですが、今回は某書家がかいたということなので、間違えようはないはずです。

こんなとき役に立つのは白川静先生の「字統」という字書です。「令」の初出は甲骨文で、帽子をかぶった人が神前に跪いている形だということ。帽子というのは「亼(シュウ)」の部分。その下にあるのは膝を折った人だから「卩(セツ)」でなければならず、「マ」は勝手な変形でした。

漢字の勝手な変形というものは、実は明朝体にも間々あって、「法」「去」の垂直棒は、本来は「ム」とつながって斜めに走る。「肩」のてっぺんの「一」も左端が「ノ」とくっついて肩甲骨をあらわす形。「羽」は鳥の翅だから、中の四点は下にむかって流れていなければ飛べない(いま気がつきましたが、「翅」の羽は正確な形になっています)。私はこれらを戦前の本でおぼえましたが、漢字を本来の形で打ってある本というのは、いま見ると異様な感じがします。

ちなみに他の辞書も見ましたが、白川先生が敵視していた藤堂明保の『新漢和大字典』(学研)は「亼(シュウ)」を「△印」だとしていて、明らかな認識ミス。漢文の勉強のさいに最も使いやすい『漢字海』(三省堂)は、「説文解字」と「釈名」という後漢の字書をひいて字義を説いてあるけれども、甲骨文・金文にまで踏み込んで説いてある白川先生には敵せず、でした。採取字のもっとも多い「諸橋大漢和」ですが、これは『漢字海』と同じく「説文解字」をベースにしているので、今回は見ませんでした。

後追いのニュースでも、マなのか卩なのかという疑問が出ており、文部省や文化庁に問い合わせています。すると「どちらでもいい」という答が返ってきているようですが、小学校では教科書体、中学校では明朝体で教えると日本の政府(文化庁)が決めているのだから、この答が返ってくるのは当然です。尋ねる相手をまちがえているわけで、こうした問題は、この人なら、と思う専門家に尋ねるほかはありません。

 
 
 

< C・ゴーン、鈴木宗男、田中角栄 >

日産自動車の前会長が逮捕されてながく検察に調べられていたが、先日やっと保釈された。保釈金が10億で、変装して出てきた、自宅には監視用のカメラが付けられている、有罪になったら執行猶予は付くのか付かないのか、治療院でも話題は尽きない。

悪名高い週刊文春では、だいぶ前から真山仁の「ロッキード 田中角栄はなぜ葬られたか」を連載していて興味ぶかい。いわく、検察は当時ずいぶん無理な理屈で田中角栄をとらえた。裁判所も無理して有罪にした。

田中角栄が法務政務官だったころに、田中自身が刑事訴訟法を改正した。検察・警察がつくった調書は、裁判で弁護側の主張とつき合わせて客観的に信用できるもののみを採用するというふうに改めた。これは国の恣意で容疑者を一方的に断罪した戦前の反省の上にできたものだった。

この法によれば検面調書と法廷での証言が異なった場合、調書に信用すべき特別な状況がない限り、証拠として採用しないとある。しかし当裁判では、くり返して、法廷での被告の証言よりも調書に特別の状況があると判断されていた。

田中角栄は自分の弁護をしてくれた弁護士・石田省三郎に「おれが作った法律はどうして適用されないんだ。おかしいよね」と言ったという。石田省三郎は当時、人権派で売り出した弁護士だった。一国の首相をつとめた者が、人権派弁護士に守ってもらわなければならないとは、さぞかし悔しかったことだろう。

それより四半世紀たって北海道の衆議院議員だった鈴木宗男が斡旋収賄の疑惑で逮捕された。この人の場合は北方四島、建設会社、海外の学会に対するいやがらせ、政治資金問題など様々にありすぎて一言ではいえないから、方々でうらみを買っていたのだろう。鈴木は悪者だと日本中に叩かれることになった。

そのことよりも、一緒に逮捕された佐藤優の方がのちに有名になった。 佐藤優はソ連に駐在した外交官で、したがってスパイだった。本職がスパイだから検察の手の内はお見通しで、拘置されている530日の間にドイツ語とマルクスの著書をおさらいして出てきた(有罪、執行猶予つき)。佐藤も鈴木も、この逮捕は国策捜査だと主張して、「国策捜査」という言葉が一躍知れわたった。ならば国は何の都合で捜査しているのだろうか。

そして今回の前ニッサン会長の逮捕である。カルロス・ゴーンは日産のもうけをフランスに持っていって、ルノーの社員の給料を払っている。自らの結婚式、別荘、世界各地にある邸宅建築費を日産に払わせている、株の損失まで肩代わりさせていて、給料は信じられないほどの高額を取っている。これでは日本人は誰もゴーンの味方をしない。

誰も味方しないという所がミソで、田中角栄も鈴木宗男も、日本中が敵だったのだ。ただし政敵などという高尚なものではなく、妬みの的にすぎない。その証拠に田中も鈴木も、今でも地元では人気がある。さきに言ったロッキード事件を書いている真山仁は、田中角栄の子分ではあるが石井一からこんな言葉をひき出している。

「日本には法の下にジャッジをするという文化はなかった。あったのは世論の下に判決を下すという信じられない現実だった。オヤジが逮捕されると、日本人はオヤジの有罪を確信した。主要メディアが有罪判決を下していた」
この言葉は小池百合子が東京都知事選挙に立候補したときの、この言葉そっくりである。
「選挙運動は私がやらなくてもいい。選挙運動は新聞がやってくれる」

ここまで来れば事は明らかだ。国は国民に忖度して悪者をこしらえて裁判を起こしているのである。国策捜査の正体である。現代の太閤秀吉といったんは持ち上げた首相を、嫉妬だけで引き摺り下ろすとはなんと恐ろしいことだろう。その正体が国民であるということにも鳥肌がたつ。カルロス・ゴーンの高給はフランスでさえ妬(ねた)みと嫉(そね)みの対象になっている。問題は法的に問題があるかないかではない。人々の感情、それも最低の劣情に触れるか触れないかである。間違いなく有罪になるだろう。

 
 
 

< いだてん …みんな出世したんですね >

患者さんとの会話で、どうしても話題になります。去年の西郷さんも、少し前の黒田官兵衛も、けっこう真面目に見ています。

何といっても題字がヘンで、横尾忠則。たしかイギリスのマン島のご領主の旗印の三本足も異様だけれど、うしろの何の変哲もないゴシック文字が妙に効いているのがこの人ならでは。作も宮藤官九郎で、まあ大河ドラマらしくならないのは初めから覚悟。

「あまちゃん」は一回15分弱の放送だったので、毎日3,4回見ていました。ずっと昔、下北沢で「愛の罰」という舞台を見たことがあって、こんな芝居をやって良いんですか、というような内容でした。伝染病死者の生き返りと、身障者施設の運動会がテーマではなかったかと思うけれど、副題に「生まれつきならしょうがない」とあって、やはり相当に危ない内容だったことは間違いなし。1994年、松尾スズキの作。

劇団大人計画は、みなさんご存知のとおり「家族計画」のもじりで、皆川猿時、顔田顔彦、杉村蝉之介という俳優の名も人を喰っていた。それ以前の唐十郎の劇団の俳優は十貫寺梅軒、根津甚八、麿赤児と名のっていたのだから、時代は少しだけ移り変わっていたわけです。江戸門弾鉄、白身殻黄身男などと名のっていた劇団もあったはずで、あれはどういった流れだったのだろうか。

1995年の公演も見に行ったはずで、ネットで調べると「ちょん切りたい」というタイトルでした。これには正名僕蔵の名前もでている。宮藤官九郎はもちろん、荒川良良、温水陽一、阿部サダヲ、みんな出世したんですね…。松尾スズキなんて橘家円喬の役で出ている。

主役は中村勘九郎で、あまり歌舞伎俳優らしくない顔をしているところが好きです。が、優勝カップとともに記念撮影している場面では、歌舞伎役者らしく、きっちり見得をきるようにキメていました。兄役の獅童も筆をもって手紙を書く姿がまぎれもない侍で、こういうところは歌舞伎でゆこうと決めているようです。

何しろあれから25年ですか。ということは私がニコス堂を開いた頃なんですね。クイーンといい、大人計画といい、みんなめでたい。

 
 
 
 

< 白黒写真 >

写真に色がついたものはすでにお手上げなので、どうしても白黒の写真ばかり撮る。白黒の写真、とくにポートレートは人物の個性が明確に現われて愉しい。

私が写真というものに目覚めたのは「ツィゴイネルワイゼン」という映画のスチール写真で、今度、鈴木清順がすごい映画を撮った、というところが入り口だった(今になって思えば)。1980年の映画で私は大学生。

そのころの映画の宣伝といっても雑誌に評が載るくらいで、実際に映画館にゆく以外には映画に触れられない。映画館に行くまえに散々目にしたのが下の写真。「鈴木清順のスゴイ映画」という触れ込みに付属した写真にも目を奪われた。ひと目みてヘンな写真だとわかった。

なにがヘンか説明できないが、説明できるようなものならば、人はすぐに忘れてしまうのではないか。週刊文春によく写真がのっている宮嶋茂樹という写真家が、「キャパの撮った”崩れ落ちる兵士”みたいに、だれが撮ったか知らないが、誰もが知っている写真を、ワシも一枚世に残したい」と言っていたが、この言葉がこのあたりの事情をよく語っている。

ツィゴイネルワイゼンのスチールを見た私は、遅れ馳せながらこの写真にも撮った人がいるはずだと思いあたり、その人の名を訪ねると荒木経惟(のぶよし)という人だという。アラーキーですね。以来、私は写真といえばアラーキーの写真しか見ることがなかった。

そのころ、怪人アラーキーの写真は白黒が多く、陰影のつよい写真だった。写っている物もエグいものが多いのも、皆さんご存知の通り。そんなこんなで、写真とはそんなものだと刷り込まれていたところへ、義父から、写真をとるようだから使ってくれと頂いたのがライカのM3というカメラで、ズマリツトという非常に明るいレンズがついていた。もちろんフィルムのカメラ。

写真は好きだけれど、写真の技術的なことは分らない。写真なんて自分の撮りたいものが撮れればいいのだろう、という典型的なお坊ちゃん思考でやって来たが、アマチュアであっても撮影について考え、いい機械をもって撮影している人たちの写真の違いがだんだんと分ってくるにつれて、今までの自分の写真も幼稚なものだと分るようになった。

ライカも、白黒写真を撮ると灰色というか青いような白黒写真が撮れる。黒いところが黒く写らない写真に、当初の私の頭のなかには大きな?が浮かんでいたが、ともかく一年写真を撮ってみて、で、ある日私の節穴の目にも、その青いような白黒写真のやさしい光というものが分ったのでした。

優にやさしい、とは、おおこのことを言うのだろう。公園の木々がなんともいえず柔らかく、やさしく光りながら写っている。こんなに明白な美しさに、今まで気づかなかったとは。今は、このやさしい光のことを考えただけで、心が幸せになる・・・。つぎはカラー写真だ。

 
 
 

<#=沼 >
友人にフェイスブックで「カメラの泥沼にはまりそうだ」と言ったら、「カメラ沼、いいじゃないですか」と返された。その返し方もいいけれど、「カメラ沼」もいい。

カメラ沼ついでに、インスタグラムのアカウントも作って鍼の写真をアップしはじめた。「#」をつけるといいと書いてあったので、自分の付けたい「#」を一覧してみると #鍼灸道具 #古典鍼灸 #古典鍼灸青鳳会 #鍼は美しい #うつの鍼灸治療 #腰痛の鍼灸治療 #森鷗外 #素問 #素問攷注 #素問訓読会 #霊枢 #霊枢講義 #難經 #傷寒論 #江戸考証学 #澀江抽齋 #伊澤蘭軒 って、これすべて自分のはまってる沼の羅列でしかない(笑)

戯れついでに、英語で#acupancture などというのも付けてみた。そしたら、異国の人まで見てくれて「いいね」を押してくれる。この沼、楽しい。

https://www.instagram.com/do_nikos/

 
 
 
 

< 唯物主義なのでございます >

人の身体をつくる物質は半年もたてば全て入れかわって本人でなくなるはずなのに、中身は本人のまま変わらないことは誰もが知っています。知っているのに、テレビで生命現象が細胞間での物質交換であるとか、心臓のポンプが送りだす血液の運ぶ酸素の消費であるとか、肝臓に蓄えられている物質の熱への変換であるとか説明されると、それが生命の本態だと納得してしまうのはなぜでしょうか。その仕組みを作り、そうさせている本質が生命なのに誰もが取り違えてしまいます。
たぶん、これが唯物主義ということだと思います。私たちの頭は、すべてのことを物、あるいは物質に置き換えなければ理解できなくなっているのです。

たしかに物や物質で説明すると、話は理解しやすくなります。水は透明で形がなく、つねに流れ来て、流れ去るもので、気化すればこんどは雲になります。それだけでいいと思うのですが、その正体が酸素と水素の結合したものだと説明されると、もっと分った気になります。酸素も水素も見たこともないものなのに、学校で元素として習ったものなので、分らなければならない気持ちになります。
こう考えてみると、やはり教育とは恐ろしい奸智だとわかります。

愛(は)しけやし 我ぎ家(へ)のかたや 雲居立ち来も

万葉集のなかの私の好きな歌です。自分の家のほうに雲がわき起こっている。それを見るだけで、自分の家や家族が愛おしくてたまらなくなる。万葉の時代の人々の雲の見方です。

石(いわ)走る 垂水の上の 早蕨の もえ出る春に なりにけるかも

水も自分の身体も、こういう捉え方でいいと思うのです。こうした思いを持てなくなると、自分の身体も生命も、失ってしまうことになると私は思うのですが。

 
 
 
 
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