2 0 1 9年 |
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< 白黒写真 > 写真に色がついたものはすでにお手上げなので、どうしても白黒の写真ばかり撮る。白黒の写真、とくにポートレートは人物の個性が明確に現われて愉しい。 私が写真というものに目覚めたのは「ツィゴイネルワイゼン」という映画のスチール写真で、今度、鈴木清順がすごい映画を撮った、というところが入り口だった(今になって思えば)。1980年の映画で私は大学生。 そのころの映画の宣伝といっても雑誌に評が載るくらいで、実際に映画館にゆく以外には映画に触れられない。映画館に行くまえに散々目にしたのが下の写真。「鈴木清順のスゴイ映画」という触れ込みに付属した写真にも目を奪われた。ひと目みてヘンな写真だとわかった。 なにがヘンか説明できないが、説明できるようなものならば、人はすぐに忘れてしまうのではないか。週刊文春によく写真がのっている宮嶋茂樹という写真家が、「キャパの撮った”崩れ落ちる兵士”みたいに、だれが撮ったか知らないが、誰もが知っている写真を、ワシも一枚世に残したい」と言っていたが、この言葉がこのあたりの事情をよく語っている。 ツィゴイネルワイゼンのスチールを見た私は、遅れ馳せながらこの写真にも撮った人がいるはずだと思いあたり、その人の名を訪ねると荒木経惟(のぶよし)という人だという。アラーキーですね。以来、私は写真といえばアラーキーの写真しか見ることがなかった。 そのころ、怪人アラーキーの写真は白黒が多く、陰影のつよい写真だった。写っている物もエグいものが多いのも、皆さんご存知の通り。そんなこんなで、写真とはそんなものだと刷り込まれていたところへ、義父から、写真をとるようだから使ってくれと頂いたのがライカのM3というカメラで、ズマリツトという非常に明るいレンズがついていた。もちろんフィルムのカメラ。 写真は好きだけれど、写真の技術的なことは分らない。写真なんて自分の撮りたいものが撮れればいいのだろう、という典型的なお坊ちゃん思考でやって来たが、アマチュアであっても撮影について考え、いい機械をもって撮影している人たちの写真の違いがだんだんと分ってくるにつれて、今までの自分の写真も幼稚なものだと分るようになった。 ライカも、白黒写真を撮ると灰色というか青いような白黒写真が撮れる。黒いところが黒く写らない写真に、当初の私の頭のなかには大きな?が浮かんでいたが、ともかく一年写真を撮ってみて、で、ある日私の節穴の目にも、その青いような白黒写真のやさしい光というものが分ったのでした。 優にやさしい、とは、おおこのことを言うのだろう。公園の木々がなんともいえず柔らかく、やさしく光りながら写っている。こんなに明白な美しさに、今まで気づかなかったとは。今は、このやさしい光のことを考えただけで、心が幸せになる・・・。つぎはカラー写真だ。 |
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<#=沼 > カメラ沼ついでに、インスタグラムのアカウントも作って鍼の写真をアップしはじめた。「#」をつけるといいと書いてあったので、自分の付けたい「#」を一覧してみると #鍼灸道具 #古典鍼灸 #古典鍼灸青鳳会 #鍼は美しい #うつの鍼灸治療 #腰痛の鍼灸治療 #森鷗外 #素問 #素問攷注 #素問訓読会 #霊枢 #霊枢講義 #難經 #傷寒論 #江戸考証学 #澀江抽齋 #伊澤蘭軒 って、これすべて自分のはまってる沼の羅列でしかない(笑) 戯れついでに、英語で#acupancture などというのも付けてみた。そしたら、異国の人まで見てくれて「いいね」を押してくれる。この沼、楽しい。 |
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< 唯物主義なのでございます > 人の身体をつくる物質は半年もたてば全て入れかわって本人でなくなるはずなのに、中身は本人のまま変わらないことは誰もが知っています。知っているのに、テレビで生命現象が細胞間での物質交換であるとか、心臓のポンプが送りだす血液の運ぶ酸素の消費であるとか、肝臓に蓄えられている物質の熱への変換であるとか説明されると、それが生命の本態だと納得してしまうのはなぜでしょうか。その仕組みを作り、そうさせている本質が生命なのに誰もが取り違えてしまいます。 たしかに物や物質で説明すると、話は理解しやすくなります。水は透明で形がなく、つねに流れ来て、流れ去るもので、気化すればこんどは雲になります。それだけでいいと思うのですが、その正体が酸素と水素の結合したものだと説明されると、もっと分った気になります。酸素も水素も見たこともないものなのに、学校で元素として習ったものなので、分らなければならない気持ちになります。 愛(は)しけやし 我ぎ家(へ)のかたや 雲居立ち来も 万葉集のなかの私の好きな歌です。自分の家のほうに雲がわき起こっている。それを見るだけで、自分の家や家族が愛おしくてたまらなくなる。万葉の時代の人々の雲の見方です。 石(いわ)走る 垂水の上の 早蕨の もえ出る春に なりにけるかも 水も自分の身体も、こういう捉え方でいいと思うのです。こうした思いを持てなくなると、自分の身体も生命も、失ってしまうことになると私は思うのですが。 |
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