あるいは、日本でいえば戦前までの精神疾患は「内が原因のうつ」、現在のは「外が原因のうつ」ともいえるでしょう。戦前までは、患者の精神や神経に問題があって精神疾患が起こりました。現在では、仕事や学校の環境に問題があって「うつ」におちいります。

さらにまた、戦前のように社会の要請がきびしかった時代には、人は、とくに若者はおおくのことを求められました。社会規範に早くなじんで、社会の成員としての働きを求められたからです。江戸時代の身分社会のことを考えれば、すぐに理解できることと思います。

一方、今日では、個人に求められることは多くありません。自由でいて良いわけで、身分すなわち職業に縛られませんから、一生あそんで暮らしていても差し支えありません。それで行き詰まれば、国家が生活を保障さえしてくれます。

しかし、こんな社会にあっては、人はかえって規範を外に求めます。仕事や勉強、会社・役所の流儀や、学校の気風につよく染まろうとするのは、個人があまりに自由だからかもしれません。現在のように人間があまりに自己中心的でいられる世の中というのは、人間にとってはかえって生きにくい世の中なのかもしれません。
 
 
 
 
     
     
     
 
 
 


さて、最後にもういちど立川昭二氏の著書にもどります。『病気の社会史』では、人間の有史いらいの流行病をとりあげています。前五世紀にギリシアに流行した疫病(病名不明)、十四世紀のペスト、今日のガン、これらの致死率はすべて4分の1だというのです。もちろんこれは偶然の一致です。しかし、これらの病気の流行には、必然の要素がありました。それは人間のつくる社会です。

人間は、もともと不完全なものです。そうした不完全な人間のつくる社会も文明も、不完全なものになるしかありません。ひるがえって、人間はこれまでに、ペスト、結核、コレラ、赤痢、梅毒、インフルエンザといった病気を克服してきましたが、これはひとりパスツールやコッホ、北里柴三郎などの細菌研究者の業績ではありません。結核を例にとるなら、劣悪な労働環境と、貧困を克服したからこそ、結核ものり越えられたのです。

人間は、みずから作った社会を改革することでしか、疫病を克服できません。しかし、不完全な社会は、いずれ何らかの致死量4分の1の病をみずから生み出すでしょう。そのとき、ペストや結核が現れたときと同様に、人間は無防備なのです。近い過去にエイズが、先年には、西アフリカにエボラ出血熱が現れたときのことを思い出せば、分かると思います。

いま、「うつ」が日本を、文明国をつつんでいます。この致死率が4分の1になることはないでしょう。しかし、歴史のうえの人間のおこないを見てみれば、これも間違いなく人間の社会の、誤った産物であることは明らかではないでしょうか。

 
     
     
 
 
 
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