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< 宮 下 省 死 「 ド グ ラ マ グ ラ 」 >

 
 鼻をつままれても分らない闇、という言葉のとおり、あれでは鼻を抓まれても分らなかったろう。耳の穴鼻の穴から、闇が体の中に3センチメートルほど染み入って来ていた。
 どこに自分がいるのかは分っているのだ。この畳の上に坐る前にトイレに行き、そのトイレには40ワットの暗赤い電球が灯されてあり、文字どおりの便所スリッパが几帳面に揃えてあるのが慇懃で不気味だった。

 用を足し、また畳に坐り、開演を待った。ここは宮下氏の自宅である。玄関からすぐの6畳間に観客は私をふくめて二人。もう一人は40才ほどの男だった。
 灯はいきなりスーッと消えて、その闇が訪れたのだった。
 何分待たされたのだろう、本当に長い時間を待たされた。これは演出だと分っていながらも、恐ろしかった。

 体に入ってくる闇のために、自分が息をしているのか否かも分らなくなったころ、はるか遠くにちらちらと踊る小さな光が見えたような気がした。闇の中に見えたかすかな光であったため、それがどれほどの距離にあるのかも本当は分らなかった。はじめは錯覚だと思っていた。

 しかしそれは、間違いなく踊るかすかな光だった。蝋燭より、もっと幽かな光が音もなく踊っていた。
 限りなく美しかった。 その正体を知りたいと思ったが、知るのも怖かった。いつまでも眺めていたい、ほんとうに幽かで美しい光だった。
 しかしそれも、長い時間をかけて闇に溶けていったのだと思う。

 その後だった、その日の主人公が姿を現したのは。
 物語の主は、右を向くと奇抜な格好をしており、左を向いたときには薄気味の悪い黒ずくめだったはずである。右半分と左半分の衣装とメイクが、まったく別物だった。それでひとり二役を演じ、右を向いたり左を向いたりしながら、声色を変えて会話をしていた。

 今になって考えれば噴飯物の演出と演技である。しかし、ここまで闇の中に飼いならされた私は、食い入るようにその半分ずつの異形の人を見つめるしかなかった。照明も素晴らしかった。こちら側の半身だけにしか明かりが全く当たらないようになっていた。すべては計算づくで、すべてが演者の思ったとおりに出来上がっていた。

 そしてその有様を当夜見ていたのは、二人の男だけであった。なんと贅沢な見物だったことだろう。
 ドグラ博士とマクラ博士の会話の中身は憶えていない。会話がつづき、おそらくは喧嘩になって破綻して終ったに違いない。
 しかしそんなことはどうでもよい。一寸先も分らない闇というものを生まれて初めて経験し、闇が人をつんぼに陥れるということを身をもって知った夜であった。

 演目の最後には、6畳ほどの舞台の奥の窓が開いて、宮下氏はそこから去っていったように思う。窓の外には八手が植わっていた。
 何年かあとに、あのちらちら踊っている光の正体は、丸めたラメ布をくしゃくしゃと動かして、それに懐中電灯の光を当てていたものと知った。

 美は金とは無関係で、ものを見る目の確かさでしかないということも、同時に知った。