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< 雨 の 日 の 舞 踏 会 >

 
  その日は雨に降り籠められた日で、やむ気配もなかった。早稲田にある木造の中規模の講堂のような建物ではなかったか。教会だったのかもしれない。なにしろ相当に昔のことなので憶えていないのである。
 夜でないことをはっきり覚えているのは、雨に降り籠められる音と、窓からの薄い光が妙に合っていたからだろう。舞踏の会なのに昼すぎにはじまったのだった。

 来会者は二十人か三十人ほどではなかったか。
 踊り手は岩名正記という人で、当時四十歳ほどだっただろう。はじめて見る人だった。
 その日の岩名氏は白粉ぬりの裸体を薄布で覆い、二本の蛍光管の一端を紐でつないだものを頸から垂らしていた。四十ワットの一メートルほどの長さのものである。
 胸の前に二本の蛍光管が垂れている。
 今は存じ上げないが、その頃の岩名氏の踊りというのは何十分も爪先立ちした ままというものだった。

 石像でないのだから、そのうち振れが来て揺れが来る、震えが来る。
 しかしながら苦痛を表現しているのではない。
 苦しい体の中にいて、当の岩名氏はこちらを覗き見しているのである。
 そんな行のような遊びをしている人間というものは本当に美しい。
 体が揺れるようになると、胸の前の左右の蛍光管も揺れ出した。そのうちぶつかって割れるのではないかと思う。すでに私は割れてしまうことを願っていることに気づく。身を固くして見ている私も、踊り手とおなじように、石のような自分の内側から外を覗き見るようになっているのである。

 そして、そうした人々を押し包むように雨が降っていた。
 屋根から地面に落ちる水のしたたりの音が講堂のなかにおし寄せ、私たち来会者は洪水で孤立した小屋にいるようだった。
 なんと濃密で幸福な時間だったことだろう。
 岩名氏は依然として爪先立ちのまま揺れている。長い間、蛍光管は割れなかった。と言うより、ぶつかりさえしなかった。

 踊り手の体の振幅がいよいよ大きくなってはじめて、蛍光管は触れ合い、音を立てた。それはコーンという芯から優美な音だった。
 私が書くのはここまでである。蛍光管が割れたのか、会がどのようにして終ったのかを書くつもりはない。
 舞踏の会とはこのようなもので、演劇的な体験とはこのようなものであるということを心に銘ずるために記しておくにとどめる。